【第705回】 開祖の教えに従って技を錬磨

合気道を始めて約60年になる。開祖には最晩年の5年ほどお教えを受けることができた。はじめに教えて頂いたのは、大先生(開祖)をはじめ、当時、若先生と言われた二代目道主の植芝吉祥丸先生の他、斉藤守弘先生、藤平光一先生、山口清吾先生、多田宏先生、有川定輝先生という蒼々たる先生方に教わっていた。しかし先生方は年が経つにつれて、お亡くなりになったり、道場を離れられたりして、今ではそのどなたにも教えて頂くことが出来なくなった。

先生に教わっている間は、先生の教えを忠実に実行し、守っていけばよかったが、先生方が亡くなったり、遠く離れてしまわれると教わることが出来なくなる。そして分かるのである。教えて貰っている内は、気楽なものであったこと、そして今後は誰に習えばいいのか、どのように修業をしていけばいいのかということである。

私の最後の先生は、有川定輝先生であったが13年前に亡くなられ、それか
ら先生方の教えを受けることがなくなった。そして今日まで誰に習えばいいのか、どのように修業をしていけばいいのかを考え、試行錯誤してきたが、ようやくその答えが出たようである。
一言で云えば、合気道の開祖の教えに従って技の錬磨をしていくということになる。大先生の教えは、画像や動画の他、『武産合気』『合気神髄』にある。

しかしながら、これらの大先生の教えには、魄の教えはほとんどない。手足の上げ下ろしや体や技の具体的なつかい方などは書いていないのである。その上、画像や動画も、そしてまた『武産合気』『合気神髄』は難解である。
何故難解かというと、大先生は見える世界の顕界の事を書いているのではなく、目に見えない幽界で幽界や神界の事を書かれている故、日常の顕界の目で見ても分からないのである。
『武産合気』『合気神髄』の大先生の教えは、魄ではなく、魂の教えなのである。魂の学びのための教えであると考える。だから大先生は、合気道は魂の学びであると言われているのであると思う。
『武産合気』『合気神髄』の教えが分かるためには、魂の学びである真の合気道の稽古に入っていかなければならない。
魄の稽古で心身を鍛え、魄の限界を覚え、そして真の合気道の修業に入るのである。

ある程度魂の稽古が出来るようになると、それに比例して『武産合気』『合気神髄』が分かるようになる。そして開祖はどのように技や体をつかっていけばいいのかを教えて下さっていることが分かるのである。だから、その教えに従って、技と体をつかって修業していけばいい事になると考える。

具体的な例として呼吸法で説明する。
まず、魄の稽古では、①持たせる手を鍛え、力一杯つかう ②鍛えたその手を諸手に持ってもらう。相手の諸手の力より強い力が必要なことが分かり、腰腹や体幹の力をその手でつかうことを覚える。③しかし、相手も腰腹や体幹の力で掴んでくると、力は5分と5分と拮抗する。これまでが魄の稽古であり、そして魄の限界ということになる。大部分の稽古人はこの壁にぶつかり、悩んでいるはずである。

この壁を破るためには魂の学びに入らなければならない。合気道は魂の学びであると大先生は言われている。魂の学びの合気道をすれば、大先生は教えて下さるということである。
大先生は『武産合気』で、
「今は丁度二度目の岩戸開きの時、魂の使命の実をむすぶ時である。知恵正覚の鍛練をすべき秋である。即ち魄を土台となし、地場・地祇・いわさかとし、その上に人はひもろぎとなって、その使命を行うことである。そして引力の鍛練を進んでゆかなければならない。そして真空の気と空の気は、合気によく性と技とにむすんで、技の上に科学しながら武産の神より与えられた力を得なければならない。そして表裏なく、魂を上にしなければいけない。(武産合気 P.97)」と言われている。

この教えを呼吸法に関連付けて解釈してみると、

大先生は、もっともっと沢山な大事な事を教えようとされているはずだが、残念ながら未熟故今のところはこんなところである。
分からないのは仕方ないだろう。分かるように、出来るようにしていくしかない。それがこれからの修業になる。
しかし、今回、大事な事が明らかになった。『武産合気』『合気神髄』の中に教えがあるという事である。迷ったり、行きづまったら『武産合気』『合気神髄』が教えてくれるはずである。