【第698回】 神と大先生

前回は有川定輝先生、ホーキング博士、アインシュタイン博士の神観を書いたが、今回は、僭越ながら合気道の創始者である植芝盛平大先生の神観を書いてみることにする。
大先生の晩年5年間ほど本部道場でお教えを受けたが、神様のお話、神様が登場するお話は多かったように思う。はっきり覚えていないのは、当時は神様には興味がなかったし、神様を信じなかったので、大先生の神様の話になると耳を背け、早くお話が終わらないかなと願ったりしていたからである。
それでも大先生の神様に関するお話の少しは耳に残っているから不思議である。

大先生の神様に関しての印象は、大先生の神様は人格をもった(人間の姿)もので、ホーキング博士の人格を持たないものとは異なる。例えば、燈明を灯して祈ると、神々が周りにお集まりになるとか、猿多毘古大神からご指示があったとか、アメノムラクモクキサムハラ竜王が降臨されたとか等々と人格をもった(人間の姿)ものをご覧になっていたと思う。

因みに、大先生ご自身も神は人間の姿であると言われているのである。但し、人間の姿をした神は高御産巣日と神産巣日の代(ジェネレーション)以降であり、それ以前の天之御中主、高御産巣日、神産巣日の神様の代は人間の姿ではなく、みな気のもとであると次の様に言われているのである。
「この最後の天之御中主の代の高御産巣日、神産巣日の神様があらわれる。即ち火のもとと水のものの神が濃厚にあらわれた。高御産巣日は霊魂の根源の神、神産巣日は霊の体の根源となってつくられて、祖神とあらわれた。その代の神は人間の姿ではなくみな気のもとである。」(武産合気P.110)

しかし、大先生は又「神は目に見えず、手で掴めません。なぜなら神は霊の霊であり、仏は物の霊なのです」(武産合気 P.53)とも言われているのである。これは上記に言われていたことと矛盾するように見える。目に見えなければ人間の姿であるということは分からないはずだからである。
大先生は間違ったことは言われないはずだから、この両方が正しいはずである。私の解釈では、「神は目に見えない」とは、普通の人の肉眼では見えないということであり、所謂、神眼であれば神の姿が見えるということだと思う。大先生は「普通の人は遮るものがあるから見えない。それは執着である」(武産合気 P.58)と言われているから、神を見るためには、執着を取り除き、肉眼を神眼に変えていかなければならないと思う。

また、人間の姿ではない神は火と水であると次の様に言われる。「神とは火と水のことで、みな悉く御息の動きによらなければ、その営みはつくれない。だから一元から二元の神の摩擦また交流によって、すべてのものが現れるのである。(武産合気P.100)

更に、大先生の神は、宇宙楽園完成の為に一霊四魂三元八力の働きに則った神の分身分業がつくられ、司々の神々ができた。八百万の神である。
また、「この神のみ働きを御名として大国常立命、天之御中主ノ神とあるが、その国その宗教によってその御名を阿弥陀仏、あるいはゴットとか太極とか天帝とか名をつけている。」と言われている。世界中に神が名前を変えているということである。

大先生の神観で他の方々と違うと思えるのは、神は人と一体となれるし、合気道では神と人の和合、神人和合をしなければならないと、「我々は神人和合して、この世の紐帯となって、無限の力と実力を整え、和合の道に進んでいかなくてはならない」といわれていることである。何故、神人和合できるかというと、「人の身の内には天地の真理が宿されている。人というと万古不易の真理が宿らぬ者はなく、それは人の生命に秘められているのである。本性の中に真理が宿っている。」(合気神髄p84)からである。因みに、この天地の真理や万古不易の真理こそが、有川先生やホーキング博士の神と考えていいだろう。

最後に、神と愛の関係である。
アインシュタイン博士は、神は愛であるといわれているが、大先生は若干その関係を微妙に違えているようである。
大先生は、神は愛であるとは直接言われず、「神の愛」と愛を神の全部ではなく一部と捉えられておられるようである。
例えば、「森羅万象を正しく産み、まもり、育てる神の愛の力を、我が心身の内で鍛練することである」と私は悟った。(合気真髄)
また、「大天主太神の大神の「愛」の心から光と熱がほとばしりでて、偉大なる力を生じるのである。この大神の御働きが、すなわち武産で、これを速武産の大神と呼ぶのである。この大神こそ大天主太神の大神の「愛」の御働きの現れとして、大宇宙の森羅万象を生み出す現象そのものであり、同時にまた大宇宙をも破壊し得る力をもつ気の活動そのものである。(合気神髄 P.40)などである。

以上、大先生の神観の一端でしかないが、今回はここまでとする。
「神」はまだまだよく分からないが、これを基にして更に研究、勉強をしていかなければならないだろう。