【第696回】 少しずつ、毎日

若い頃は毎日、道場に通い稽古をするようにしていた。毎日しないと力が使い切れず満足できなかったからだ。
年を取ってくると、毎日、道場に行って稽古するなど出来なくなってくるし、やろうとも思わない。道場稽古は週2~3回になる。仕事や体力的な制約によりこれが適しているようで、今日まで続いている。

しかし、習い事は毎日やらなければ上達はない。週2~3日では大した上達などないはずである。それ故、少しずつではあるが、家では毎日やっている。毎朝、自宅で一刻ほど禊いでいるのである。合気道は禊ぎであるから、毎朝、自宅で合気道を修業していることになるわけである。道場での修業とは異なるが、ある意味で道場稽古よりも厳しい修業である。
禊ぎの合気道は精神的な面と肉体的な面があるが、自宅での禊ぎは道場よりも自分を厳しくする。何故ならば、相手がいないわけだから、強い弱い、勝った負けという相対的なものではなく、自分や宇宙との絶対的な修業であるからである。

人は本質的には怠け者である。どうしても、少しでも楽をしようと楽な方にいってしまう。大先生が毎日、禊ぎをしなさいと言われていても、禊ぎなどやらずに、その分寝ていようとか、明日稽古に行けばいい等と言い訳をつくってやらないのである。

禊ぎを日々やっているかどうかは一目でわかる。体にそれが表われるからだ。体は柔軟になり、しかも強靭になり、体は貼り、血色がよくなる。また、道場稽古での体づかいや技づかいも変わってくる。禊ぎで宇宙(自然)や自分自身からいろいろな教えや力を受けるからである。
禊ぎを日々やらなければ、自然の方程式にのって、通常並みに衰えていくことになる。

道場稽古は相手がある稽古であるが、いずれ出来なくなる。自宅での禊ぎは、足腰が動く限り出来る。少なくとも道場稽古よりも長く出来る。これが出来なくなった時はこの世とのお別れであり、だから最後の最後まで出来ることになる。相手は他人ではなく、自分自身と宇宙である。最後まで一緒に居られるのである。

大先生は、「合気道を学んでいる各自にお願いしたい。日々、必ず修業してほしいと思う」(合気神髄 P152)と言われているのである。