【第693回】 研究課題をもって

入門してから白帯時代、そして有段者になっても当分の間は道場に行って稽古をすれば、何かを教えて貰えると期待して通っていたものだ。大先生が居られた時期や大先生の直弟子であった師範が教えておられた頃は、いつも今日は何を教わるかと期待して通ったものであり、実際、毎回多くの教えを受けていた。

その後、大先生をはじめ、大先生の直弟子だった師範も亡くなられたり、本部道場から離れられてしまい、何かを教えてもらうということは難しくなってしまった。

最後にそれを期待しながら道場に通ったのは有川定輝師範の時間だった。有川先生にはいろいろな事を教わっていたことが今になるとよくわかる。先生の時間に出ていると、大事な何かを教わっていたのである。当時、気がついたものもあれば、今になってようやく気がついたものもある。
幸運にも、先生が存命中に教えられたことで気がついたことがあった。それは、有川先生はどの時間も一つのテーマを持って技を教えられておられたということである。例えば、手刀の稽古とか、腕つかいの稽古等とこれを幾つかのやり易い技(形)で一時間通してやるのである。
それにその時間の稽古のテーマを数秒・分の準備運動の中に示しておられたのである。従って、その時間のテーマに気がつかなければ、稽古に意味がなかったことになるわけである。

この先生の教えは、テーマを持って稽古をしなければならない、そして研究課題をもって稽古をしなければならないという事になると考え、そうしようとしている。

初心者は道場に通って何かを教えてもらえばいいが、高段者はそれでは飽き足らず満足できないはずである。満足できる稽古をするためには、問題意識を持ち、研究課題を持つことだと思う。
しかし、それは容易ではないだろう。そもそも問題がわからないのだ。何が自分にとって問題なのかが分からないし、問題を意識できないのである。また何か上手く出来ない事があっても、稽古を続けて行けばその内に上手く行くと思って、問題にしないのである。
だから、問題が分かるようになれば、その人は大した進歩をしたといえるだろう。

問題が分かれば、その問題の原因がどこにあるのか、その問題を解決するにはどうすればいいのかと試行錯誤することになる。これで研究課題を持ったことになり、真の稽古が始まるわけである。
そうなると、稽古相手のある道場は、研究所に早や変わりする。相手に問題解決策を試し、また、新たな問題を経験し、また、それを解決する処になるからである。

道場で研究課題をもって稽古をしていくと、それだけでは問題が解決されないことも分かってくる。道場稽古は相対での稽古になるので、どうしても相手を意識してしまい、肝心の課題を忘却の彼方にやってしまったり、その課題に十分集中できないものである。
相手を意識せず、課題に集中するためには、一人にならなければ難しい。一人になる自主稽古でその課題に挑戦するのである。自主稽古に慣れてくれば、一人になっても稽古ができる事が分かってくる。いつでもどこでも課題を見つけ、研究することができるわけである。身の回りのモノを見ても、書物を読んでも、草木や自然を見ても、己の課題を見、そしてその解決策を見つけるようになるのである。自然や宇宙が課題をくれ、その解決策を教えてくれるのである。
そしてその教えを道場で試してみればいい。道場での稽古の有難さ、一緒に稽古をしてくれる相手の有難さが改めてわかるはずである。

研究課題をもって稽古に励まなければならないと考える。