【第691回】 木っ端も師であり神様

長く続けて分かってくることがある。だからある程度の年は取らなければならないということも分かってくる。

若い頃は、目先の事に囚われ、物事を短時間、効率的、効果的面、省力で片づけるのを良しとした。稽古でもなるべく相手より早く強くなろうとか、相手を投げたり極めればいいと思ったり、時間や労力を最小にして最大の効果を上げようとしたり、即効果を期待したりしていたような気がする。

私は強くなりたいと思っていたので、何か武道をやろうと考えていた。私の体形や気性から空手がいいだろうと思っていたところ、偶然にも合気道との出会いがあり、今日に至っているわけだが、この偶然に感謝している次第である。
この偶然の出会いは合気道だけではなく、女房、先生、友人たち、仕事仲間等々との出会いも不思議でならない。これらの出会いは偶然であるということと、そしてこれらの偶然の出会いがすべて繋がり合っている事である。それ故、この内の出会いの一つでも無かったり、違う出会いであったなら、自分の人生は絶対に変わっているはずである。
年を取ってきた今、これまでのすべての偶然の出会いに驚愕し感謝している。

若い頃は、出会いを偶然などとは思わないものだ。当然な成り行きであり、出会いに感激したり、感謝することなどないだろう。それ故、出合った人たちからいろいろな事を教わっているはずだが、その有難さも感じないだろう。
最大の出会いは両親であると思うが、両親にはいろいろお世話になり、感謝しているが、それどころか、今は両親は神様だったのではないかと思うほどである。またそう思うと、これまで出会った方々も、神様だったのではないかと云える。両親の他、女房、女房のご両親、また、大先生や吉祥丸先生、有川定輝先生等々は私にとっての神様である。

神様などというと、こいつ頭がおかしいのではないかと思うかもしれないが、もう少し卑近な例で神様を紹介する。
それは木っ端といってもいい木剣や杖である。
木剣や杖は50年以上お付き合い願っているが、最近は毎日お世話になっている。すると振っている木剣がいろいろと大事な事を教えてくれるのである。十字の手のつかい方、縦横の息づかい、阿吽の呼吸、親指を支点とした手の返し、剣先と手先と腹の結び、握力の強化、拍子、腰の十字、撞木足、左右の手の陰陽づかい、足の陰陽づかい、正中線での剣づかい等々教えてくれる。最近では毎回何か重要な事(秘術)を頻繁に教えてくれるし、これからも導いて下さるようだから、この先どれだけお世話になるかわからない。この木っ端は、まさしく無限の教えを秘めている「黄金の釜」であり、私にとっての師であり神様といっていいと思っている。

円空は木っ端に仏を見て、約12万体の仏を木っ端に彫ったのである。

木刀を木っ端と見るのもいいだろうが、それはまだ未熟ということだろう。もったいない、罰当たりである。

力をつけるために、手っ取り早く西洋流にマシンをつかうのもいいだろう。しかし、マシンは一つの目的を果たすためには手っ取り早いだろうが、木っ端の木刀のように対話はないだろうし、木刀の様にいろいろな事を教え続けてはくれないから、神様にはなれない。