【第690回】 力一杯やる

合気道は武道であるから、武道としての稽古をしなければならない。スポーツとも違うし、踊りとも違う。合気道は武道としてどのような稽古をしなければならないか、今一度考えなければならないだろう。

武道とは武術の流れを汲んでいるし、この流れから出るのは不味いと考える。武術、取り分け中古の覇道的な武術は、敵を殲滅する事が稽古の目的であったので、厳しい稽古であったはずである。その稽古の厳しさは社会的な背景があり、社会がそれを求め容認していたわけである。今の稽古でそのような稽古をすれば、パワハラとか何とかで非難されてしまうだろう。

それでは今の合気道を武道としてどのように稽古していけばいいのか。
相手を殲滅するような稽古を大先生は中古の覇道的な武道であると否定されておられるから、相手を殲滅するための稽古でないことは確かである。
しかし、これが多くの稽古人に誤解を及ぼしているように思える。つまり、殲滅しないことは、相手と争わずに仲良く稽古する事ということになり、相手が気を悪くしないような力で打ったり、掴んだりし、適当に受け身を取ればいいという事になってしまっているように見える。そして何かの弾みで相手が力一杯打ったり、掴んだりすると動けないし、技もつかえないと慌てたり、憤ったりするのである。これでは武道とは言えない。

確かに合気道は相手を殲滅するために稽古をしているのではない。しかし何時でも相手を殲滅できるように、体や技をつかわなければならないと考える。つまり、稽古の目的は殲滅ではないが、稽古の結果として殲滅出来るように稽古をしなければならないという事である。例えば、合気道は技を錬り合って稽古するが、技は相手を倒すためではなく、相手が自ら倒れるように、技を練るということである。つまり、相手を倒すのではないが、相手が倒れなければ、その技は失敗作ということになる。

このためには、武道をやる体をつくらなければならない。体が大事なのである。土台の体がしっかりしていなければ、気持ち、心、精神が収まらないし、技もつかえないのである。
また、大先生は、「武は古より本来、本性における魄の上に造り主の魂を現わし、三界を和合愛育するためのもの」(合気神髄 P.90)と云われているように、魄(体)の上に魂が現れるわけだから、魂の土台の魄である体をしっかりつくらなければならないことになる。

武道の体とそのつかい方については、これまで沢山書いてきたので省くが、その最も大事なものの二、三を書いてみると、合気道に於ける武道の体は、○手足の末端と腰腹が結んでいること、そして腰腹で手足をつかう体である。
○手足腰が十字に動き、十字につかう事である。
○腰、足、手の順で体をつかう事である
○息に合わせて体をつかうことである 等々

力一杯攻撃しないと自分の稽古にならないだけでなく、相手の稽古にもならない。遠慮したり、力を抜いた稽古は自分にも、相手にも益を与えず、失礼なのである。
力一杯打ったり、掴んだりできれば、力は自由に制御できるので、相手に合わせてできるものである。時として、強い力で相手が動けなくなったり、技をつかえなくなるだろうが、2,3度やってできなければ力をセーブしてあげればいい。

力一杯打つためには、手を剣の様につかえなければならない。真っすぐで、折れ曲がらずに、気と力で満ちた手にし、息に合わせてつかわなければならない。一刀で相手を殲滅させるぐらいの力がなければならない。このためには剣を十分振らなければならない。
手が剣の様につかえるようになれば、相手が力一杯に打ってくる手を制することができるようになるはずである。剣も振れず、手が剣の様につかえなければ、相手の打ってくる手を制して技を掛けることなど出来るわけがない。
正面打ち一教や入身投げなど、相手に力一杯打たせて稽古をしなければならないと思う。触れたか触れないかのような技や体づかいでは稽古の意味が違ってくる。また、大先生がそんな稽古をご覧になったら、きっと叱られるはずである。かっての稽古法であるが、かってのモノで、失ってはいけないものもある。武道として、改善するモノは改善し、必要ない物は取り除くが、必要なモノは残さなければならない。

攻撃を受ける側も力一杯やらなければならない。仁王様になったように、阿吽の呼吸で全身に力と気を満たして、手、足、腹腰をつかって技を掛けるのである。
しかし、技を掛ける手に力を力一杯出すのは容易ではないだろう。何故ならば、手先と腰腹が結び、気と力が流れなければならないわけだが、どうしても肩でその流れを止めてしまっているからである。肩を貫くのが難しいのである。また、手が鉄の棒のようにならなければならないが、指先や手の平まで気と力が行き切らず、真っすぐにならず、名刀の手にならないのである。鈍刀の手で技は効かない。

また、手のつかう方が不味ければ力は出ない。手の平が縦横の十字に動くように、腰腹をつかわなければならないし、外に気やエネルギーを出す時は、親指を支点として手の平を返し、気と力を収める際は、小指を支点として手の平が返るようにするのである。これらはどんな相手にでも適用できるはずなので、宇宙の法則と言っていいだろう。つまり、宇宙の法則、宇宙の営みでどうすれば、力一杯出し、力をつかうことができるということになるだろう。

武道としての合気道は、息と体を宇宙の営みに合わせ、力一杯稽古をやるべきだと思う。