【第686回】 大先生の思い出(前編)
合気道は大先生の教えに従って精進しなければならない。合気道人口はますます増えているようだが、大先生を知っている稽古人はどんどん減っており、今や貴重価値と言っていいだろう。
合気道を学ぶ者はだれでも、大先生の事を少しでも知りたいと思っているはずだが、大先生が昇天されて50年も経ってしまうと、大先生を知る人が少なくなってしまったこと、また、知っている人でも記憶が少しずつ薄れていき、忘れたり、勘違い等をするようになるから、大先生を知ることが段々難しくなるのである。
そこで今回は、私の大先生の思い出で、大先生のほんの少しの一面を紹介したいと思う。大先生と稽古をさせて頂いた期間は5年ほどだったが、大先生にはいろいろな事を教わったということが、今になると分かる。それを思い出すままに書いてみることにする。
- まず、大先生に初めてお目に掛かった時の印象である。
入門して間もなくのこと、自主稽古をしている時、突然、道場を横切って事務所に入られた時に初めてお目に掛かったのだが、先輩たちからは凄い人だと聞いていたし、その時は普通の元気なご老体という印象だったので大先生とは思わなかった。その上、その時は大先生を知っている先輩もいなかったので注意されることもなく、初心者の二人で稽古を続けていたのである。失礼極まりない出会いであった。
- 大先生は東京(道場に隣接のお住まい)と岩間にお住まいがあり、行き来されておられたので、我々には大先生がどちらに居られるのかはっきりとは分からなかったが、稽古人や道場の雰囲気で何となくわかった。大先生が東京に居られるときは、道場に何か緊張が走り、稽古人は気を引き締めて稽古をしていた。
- 大先生のところには多くのお客が訪ねて来られた。時にはお客を道場にお連れして、説明演武や神楽舞などをお見せしていた。
- お客がない時でも、お一人で我々が稽古をしている道場に突然入られ、内弟子相手に説明演武をされたり、道話をされた。朝の稽古には稽古着に袴を付けられて稽古をされていたようだが、午後からは平服でやられていた。しかし何時も足袋を履かれておられ、素足の大先生を見たことはない。
- 一度、大先生が事務所で電話をされているのを見た。会員証を事務所に置いて道場に入るのだが、その時大先生が電話で、ゆっくりした丁寧な口調で、合気道の事を説明されていたようだ。当時は合気道はまだ世にあまり知られていなかったので、合気道を入門するか見学のために合気会の事務局に電話で聞いてきた様子である。そこに大先生がちょうど居られたので、電話でご説明という事になったようである。その時の大先生の丁寧なご説明振りが印象に残っている。
- お先生が我々の稽古時間に突然入ってこられて演武やお話をされるのだが、その時間はまちまちであった。大先生の気分次第で長かったり、短かったりした。
我々若い稽古人にはお話が難しくてわからないし、早く稽古をしたくてムズムズしていたものだ。
とりわけ神様のお話はみんな苦手で、それを大先生は感じられ残念だったようで、今では申し訳ないと思うと同時に、もう少し真剣にお話をお聞きすればよかったと後悔している。
具体的にどんなお話をされていたかというと、合気道は気育徳育常識(後に、体育が加わる)の涵養であるとか、合気道は天の浮橋に立たなければなりませんとか、那岐・那美二尊の島生神生のみ振舞に基づいて合気は生まれた等々、『合気神髄』『武産合気』に書かれているようなことをお話になったのである。これを正座で拝聴するのである。大変だったが、お陰で今は正座が気持ちがいいし、結構長く坐れるようになった。
- 大先生が我々の稽古中に道場にお入りになる時は、稽古を中断して正座をしなければならなかった。それ故、大先生が道場の入り口にお見えになれば、間髪を入れず手を叩いて稽古を中止する合図をするのが、我々若い稽古人だった。もし、大先生が来られたのに気がつかずに、大先生が一歩でも入られても誰も気がつかなければ、「老人を大事にしない」とお叱りを受ける事になった。
- 大先生にお叱りを受けたことは多々ある。しかし大先生のお叱りはただのお叱りではない。激怒である。道場中が震撼して、誰も顔を上げられず、大先生の顔など見る事ができないような怒気に満ちるのである。とても人間とは思えない怒り方である。
大先生はどんな時にそのように叱られたかを思い出してみると、例えば、
道場で足を投げ出したり、道着をはだけたりしているのを見つけられた時。男性が女性を強く投げたり、抑えたりしたのを見つけられた時、そして女性は大事に扱わなければならないと言われていた。木刀や杖を道場で振っているのを見つけられた時、そしてまだお前たちには得物を振るのは早い、もっと体を鍛えなさいと諭された等である。
また、自主稽古などで、力を抜いた稽古をしているのを見つけられた時である。「そんな触れただけで倒れるような稽古はするな」と叱られたのである。
もう一つ、私の為に大先生が激怒され道場中が震撼した件を紹介する。
私はほぼ毎日3時と5時の稽古、そしてその間の4時―5時も仲間と自主稽古をしていた。ある時、先輩たちは、前の時間に教えておられた先生と一緒に車座になって道場の端で談笑されていた。私はまだ入門して一年も経っていない白帯で、同じ白帯の仲間と正面打ち一教を稽古していた。過っての正面打ちは一教にしろ、入身投げにしろ、尺骨を思い切り打ち合わせてからやるので、我々の尺骨は赤く腫れていて、当たると痛い。そこで思い切り打たないで、(今の稽古のように)滑らすように触れて相手の手を抑えて技を掛ければいいだろうということになり、これは尺骨が痛くなくていいなと言いながら2,3度やっていたのを、大先生が道場に隣接していた事務所の窓からご覧になっておられ、私の目と合ってしまったと思った瞬間、大先生は事務所から道場に飛び出して来られながら、そんな稽古をするもんじゃないと激怒されたのである。てっきり大先生は我々のところに来て、お説教をするのだと観念して正座すると、不思議な事に談笑している先生のところに行かれてひとしきり激怒されお部屋に戻られたのである。談笑していた先生や先輩は頭を下げて聴いていたが、大先生がいなくなると、何で怒られたかわからないとぼやいていた。叱られた先生には申し訳ないと思ったが、成り行きから、原因は私にあると云えずに終わってしまった。
大先生は間髪を入れずに悪い事や間違ったことに激怒されるが、間違った事をやった本人を怒らず、その時の道場の責任者や古株を叱ったのである。これは後で気がつくわけであるが、やった本人はそれが悪いと知らないわけだから、傍にいる者が注意するのが理である。それに気がつかず、また注意をしなければその責任者が悪いことになるからである。
やはり、この意味でも大先生は常人とは違っておられたわけである。
- 大先生にしかられない稽古がある。坐り技である。坐り技を力一杯にやっていれば、いつもニコニコされていたし、坐り技をやっていて叱られた人はいなかったと思う。坐り技は体をつくるのに大事だという事を教えられていたと思う。このお陰で、股関節が柔軟になっている。
- 大先生の超人的な凄さと人間らしさの思い出がある。
私も先輩たちと自由時間に談笑に加わって話を聞いていると、大先生が外出着のまま少し興奮気味に玄関から我々のところに来られて、「千葉(当時内弟子)の馬鹿がわしの頭を叩きおった」と言われるのである。怒っておられるのだが、何か自慢げでもあったように見えた。年配の先輩の一人が大先生どうされたのですかと訊ねると、大先生は、木刀の演武で打ってきた木刀がまともに頭に当たったというのである。千葉先生は遠慮などしない人なので、思いきり打ち込んだことは誰にも想像できた。相当な勢いで木刀が大先生の頭に当たったはずである。それを察した先輩は、頭は大丈夫ですかと聞くと、大先生は頭を一寸見せて、「大丈夫だ。わしの頭は刀で切られても切れん」と言われたのだ。
- また別の日、車座になって談笑しているところに、外出着の大先生が来られて、草履の鼻緒が二度も切れてしまったが、不吉なので行くのをどうしたものかと言われた。先輩たちが大丈夫ですよと言うと、その言葉を待っていたかのように、それじゃ行ってくると出掛けられた。大先生の人間としての側面を覗くことができた。
- 大先生がよく口にされたことばで印象的だったのは、「50、60歳はまだまだ鼻ったれ小僧じゃ」である。我々はまだ20代だったので当然だと思っていたが、当時居合わせた先生方の中には、まだ50,60才になっておられないが、「俺は違う」と心の中で反抗されておられたようだ。当時の50,60才は、今の60,70才になると思うが、確かに80才前は物事を十分知らない鼻ったれ小僧であると実感している。これは素晴らしい教えであった。そこで80才になったら、鼻ったれ小僧と云われないような一人前にならなければならないと思っている。
<続く>
余り長すぎるのでここで区切ることにし、この続きは次回『第687回 大先生の思い出(後編)』とする。
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