【第684回】 次の異質の次元の稽古へ

第611回で「次の次元の合気道へ」を書いて、試行錯誤しながら稽古を続けてきたが、次にこれまでとは違う異質の次元があり、その次元の稽古に入らなければならないと確信するようになった。
先ず、何故そう確信したか、何故異質の次元の稽古に変わらなければならないのか、その為にどうすればいいのか等を考えてみたいと思う。

大先生の技、大先生が言われた道話や著書『武産合気』『合気神髄』など難解でほとんど理解できないわけであるが、これは大先生が異質の次元で稽古をし、話され、書かれておられていたからなのである。本部道場の床の間に掛かっている掛け軸の文字「合気道」も、我々の日常生活とは異なる次元で書かれたものなのである。
従って、『武産合気』『合気神髄』を理解し、「合気道」の掛け軸の本当のすばらしさを理解するためには、己もその異次元に入らなければならないし、その為にも稽古をしなければならないのである。

大先生の『武産合気』『合気神髄』の教えも、その次の異次元に入るために、そして入ってどのように修業するのかを顕したものだと思う。だから、技がどうのこうのとか、手足をどのようにつかえばいい技になるかなどは一切書いていない。何故ならば、そのような事は前段階の準備段階のことであるということだろう。それ故、準備段階にある者には、大先生の教えは理解できないわけである。

合気道はその異次元の世界に入るために稽古をすることであると考える。第611回「次の次元の合気道へ」で書いたように、これまで一生懸命にやって来た形稽古は、「体の節々をときほぐすための準備です」ということで、まだ真の合気道ではなく、異次元の世界に入るための準備段階であり、ここから真の合気道の修業が始まるという事だと考える。

さて、それではどうすれば次の異質の次元の稽古、真の稽古へ進むことができるかということである。
まず、形稽古が準備段階ということは、裏を返せば準備をしっかりしなければ次に進めないということでもある。それではしっかりしなければならない準備とは何かというと、合気の体をつくること、その体を理合いでつかえるようにすること、呼吸力を養成することであると考える。気流柔剛の三元の体、八力と呼吸力を備えた体をつくり、そしてこの体を陰陽十字など宇宙の法則に合してつかうことが出来るようにしなければならない事などと考える。

これが出来るようになってくると、己の体を最大限につかえるようになるが、己の限界を感じるようにもなってくる。稽古相手や稽古仲間との力の差はどんどんなくなるし、己の力がそれ以上に増強するようにも思えなくなってくるのである。
ここが準備段階の限界ということになると思う。多くの稽古人がここで悩んでいるはずである。
人はこれまでのやり方を変える事に不得意なようで、どうしてもこれまでの延長上でやってしまい、その結果、技が上手く効かないだけでなく、体をこわしてしまい、引退という事になるのである。

次の異質の次元の稽古に入るためには、これまでと異質の稽古をしなければならないのである。尚、前段階は人間個人の稽古であるといえよう。
例えば、大先生は天地、宇宙の力をお借りしなさいと言われているわけである。人の力なぞ高が知れているが、天地、宇宙の力は無限であるから、それをお借りするようにしなければならない。天の気、天の呼吸や地の呼吸などである。宇宙との一体化である。それが真の合気道であり、それを目指さなければならないと言われていたはずである。

また、神様の力をお借りするのである。過って大先生はよく神様のお話をされたが、何故されるのかわからなかったが、今、段々分かってきた。人は何かに向かって全力を尽くしても不安があるものである。例えば、試験勉強で最善を尽くしたつもりでも不安はある。しかし、もう自分ではどうしようもない。そこで神様にたのむことになるわけだ。
合気道でも己の稽古を自分としては十分やったと思っても満足できず、もっとやらなければならないと思うはずである。そこで神様のお力に頼ることになるわけである。

ということは、合気道は宗教でもあるということである。
大先生は、「合気道は宗教にあらずして宗教なのであります」(武産合気 P.42)と以前言われておられたが、これでこの意味が分かるだろう。

更に大先生は、勝った負けたのといった人間相手の稽古をせず、神様を相手に稽古をされたと、「私は人間を相手にしていないのです。では誰を相手にしているのか、強いていえば神様を相手にしているのです」(武産合気 P.42)と言われているから、神様から教わってもおられたことになろう。
また、合気神社大祭に参拝するのも、異次元の世界に入って、神様に触れ合い、教えを受けられるようにするためであるのではないだろうか。
しかし、前段階で十分に鍛えていなければ神様に触れ合うことも、神様の助けもないだろう。神様が助けて下さるように修業しなければならないということである。