【第683回】 短所が生きてくる

年を取らないと分からない事が多い。子供の頃や若い頃、これは不味いのではないか、これは自分の短所だろうと自分を責めていたことが多々あったが、年を取ると、それが短所どころではなく、年を取って生きてくるようになるし、場合によっては生かさなければならなくなるのが面白い。

私は非常にあきっぽかったと思う。直ぐに興味を持つが、直ぐにその興味はなくなり、次の興味に移っていった。子供の頃の遊びは、鬼ごっこ、かくれんぼ、メンコ、ビー玉、竹馬、縄跳びをはじめ、女の子のゴム跳びもやった。
スポーツも三角ベース、ベースボール、ソフトボール、テニス、陸上はハイジャンプ、幅跳び、ハードルをやったが、どれも一刻だけの興味で、続けようとは思わなかった。
ハイジャンプは高校のインターハイで県でのチャンピオンになったが、大学では陸上部には入らなかった。遊戯ではパチンコも麻雀もやったが、深入りすることなくほんのお付き合い程度であった。
勉強の方もあれもこれもと気が多かったが、特別集中した勉強はしなかった。

これはというモノもなく、このようなあきっぽく、一つのコトに集中できない短所には困ったものだと思っていたが、大学に入って時間ができるとそれを痛感した。
何か自分が熱中出来て、一生続けられるものを見つけなければならないと思っているところ、偶然に合気道との出会いがあって、お蔭様で今日まで続けさせてもらっている。
あきっぽい自分がどうして合気道には飽きずに50年以上も続いているのが面白い。

合気道は相対での形稽古で上達していく武道であるが、稽古をする基本の形(かた)の数はそれほど多くない。4,5年稽古すれば誰でも覚えてしまう。しかし覚えてしまっても、その形を繰り返し稽古しなければならない。何十年稽古をしている古参の稽古人も同じように形を繰り返すのである。

形を繰り返して稽古するだけでも筋肉ができ、体が出来たり整い、健康にもいいだろうからいいだろうが、或る時、同じことを繰り返すだけでは面白くないと思うようになった。自分のあきっぽさという短所が芽をふいて来たわけである。所謂、一般的に云うスランプである。

形稽古では指導者が示す形をやらなければならないから、別の形を好き勝手にやる事はできない。しかし、こちらは同じことを繰り返してやりたくないというジレンマがある。
そして有難いことに、己の短所が生きる稽古法をやることになったのである。形は変えずに、変えて行く稽古である。形を崩さずに、形を守り、しかも変えていき、変わっていく稽古である。

形は技で構成されるから、構成されるべき技を変えていくのである。技を変えるということは、技を見つけ、形に取り入れていくことである。新たな技(法則)を見つけて会得したら、次の技に挑戦するのである。これなら飽きる事はない。永遠に変わっていくからである。だから、同じ技に留まっていないようにするのである。
あきっぽくないとか同じことをずっとやり続けられる人は一般的に評価されるかもしれないが、この稽古は難しいだろう。

短所と思っていたあきっぽさや、同じことが出来ない、したくないということが、年を取ってみると長所になっていたわけである。この短所がなければ合気道も続けることはなかったことになる。
年を取らないと良し悪しなどわからないということである。若い頃の短所や欠点と思われたり、言われたことなど気にしないでいい。それは個性であり、後の長所に変わる宝でもあるはずだ。

更にわかってきたことは、若い頃、あきっぽいとか一つの事に集中できないということは、何かこれはという事に出会っていないし、探しているということであったように思える。
上手くいくという保証はないが、それは年を取って分かる。自分を信じていけばいいということだろう。