【第681回】 五つの宝
半世紀以上にわたって合気道の修業をしているつもりだが、まだまだである。やることはやってきたつもりではあるが、合気道の道のりはまだほど遠い。
やるべきことと思ってやったこととは、例えば、技の稽古と受け身を足腰が立たなくなるほど精一杯取る。木刀や杖を豆が何度もつぶれるぐらい振る。相手に気おくれしたり、力負けしないような稽古をする。走ったり、山歩きをして足腰の鍛練をした等である。
この段階の後で最近までは、体を理合いでつかう稽古をしてきた。例えば、技を掛ける際は、体の中心の腰腹からの力をつかう。また、体と技は、例えば、陰陽十字など宇宙の営みに合してつかうようにしている等である。
お蔭様で、以前とは技の効き目が変わってきた。しかし、このままでは必ず壁にぶつかり、先に進めないことになると思うのである。
何故ならば、ここまでの稽古は、己の身体を鍛え、その己の力だけで技をつかい、相手を制し、導いてきたわけだが、己の力だけでは限界があるという事に気がついたわけである。己の力を土台にして、他の力をお借りしたり、援助してもらわなければならないと思うようになったのである。
そのように思っていた時、大先生の次のようなお教えに出会った。
「日月の気と天の呼吸と地の呼吸、潮の干満とこの四つの宝を理解せねばだめなのです。もう一つ、澄み切った玉が必要です。この五つのものが世界を淨め、和合させていると思っている。これに賛成する人は、同志として光明を天から与えられ、それを観得される筈です。」(武産合気 P.52)
まず、技を精進していればピーンと来ると思うが、この教えの中の「世界を淨め、和合させている」は、技の形稽古においての、「技を掛けてくる相手を浄め、そしてその相手と一体化(和合)、そして導ける」ということになるはずであるから、この大先生の教えは、技が上手くなるために必要な事(宝)を教えておられるはずである。
技が上達するには5つの宝が必要なのである。日月の気と天の呼吸と地の呼吸、潮の干満と澄み切った玉である。この5つの宝を身につけていかなければならないのである。そこでこの宝がどのようなものであり、そしてそれをどのように技に取り込んでいけばいいのかを研究してみたいと思う。
- 日月の気:太陽の気と月の気を理解し、それを取り入れていくのである。
気とは生命力という力であるから、この気を取り入れれば人の力を超える力、超人力を持てる事になるはずである。
まずは日月の気の存在を信じなければならない。簡単である。例えば、植物は日に向かって成長する。狼は月に向かって吠えるという。彼らが感ずる気があるということである。
日月にはどのような力があるかを見てみると、まず日と月は対照的である。ここで注意しなければならないことは、日と月には目で見えるモノと目で見えないモノがあることである。
目で見えるモノは、日はギラギラ輝く光、月は優しい光である。
見えないモノは、日は発散するエネルギー(気)、万人や万有万物に分け隔てなく照らす愛の光、また月は万有万物を引き付ける慈愛の光である。
また、日(太陽)は男性、父性であり、月は女性、母性といわれ、優しさや慈愛に満ちていると云われる。更に月の満ち欠けは、成長と再生の象徴であり、神秘的であるといわれる。
このような日月の気(生命力)を身につけていけば、相手、そして宇宙と一体化できるいい技が生まれるということだろうと考える。
- 天の呼吸と地の呼吸:天の呼吸は日月の息であり、地の呼吸は潮の干満であると言われる。つまり、天の呼吸とは天と自分を結ぶ縦の息(火)で、地の呼吸は地と自分を結ぶ、この縦に対しての横の呼吸(水)であると考える。
この天の呼吸と地の呼吸を技につかうためには、火と水の天の呼吸と地の呼吸で、右にらせんして舞昇りたまい、左にらせんして舞い降りる動作によって、水精火台の生じる摩擦作用を生じさせることだろう。これを大先生は、「水と火との動き、つまりタカミムスビ、カミムスビの二神の、右にらせんして舞昇りたまい、左にらせんして舞い降りたもう御行為によって、水精火台の生じる摩擦作用の模様と全く同一形式なのであります。」(武産合気P.75)と言われているのである。
天の呼吸と地の呼吸を結ぶには、阿吽の呼吸が必要だろう。四股踏みをすると、それがよく分かる。
- 潮の干満:上記に記したように、潮の干満は天地の呼吸の交流によって生じる。天地の縦と横の息づかい、火と水の息づかいによって、潮の満ち干が生じる。大きく息を吐き、息を吸い、潮の満ち干のような、出力と引力が出るのである。この満ちる力を赤玉、干る力を白玉という。
この赤玉、白玉を磨く事で技が上達することになるはずである。特に、引く息を大事にして白玉を鍛えるといいようだ。
- 澄み切った玉:澄み切った玉を真澄の玉という。この玉のご説明を大先生はされていないようなので、自分なりに解釈している。形稽古からの感覚で、これが真澄の玉であろうと感じるわけである。それを簡単に言えば、技の収めの際の心体であると思う。例えば、一教で相手を床に伏せて抑える際、心を無にし、体に気を満たした状態であり、透明に透けた心と無心の気で丸く膨らんだ体で、透明で澄みきった玉という感じになる。
私はこの四つの玉の重要性と必要性に賛成であるから、“同志として光明を天から与えられそれを観得する筈”だから、天のご支援とご協力がその内にあるだろうと期待しているところである。
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