【第68回】 真似 − 技を盗め

何でも稽古事は、真似をすることからはじまる。基本の形(かた)を体にしみ込ませるためと、自分にこびり付いている癖をとるためである。はじめから好き放題やれば亜流に流れて行き、いずれ行き詰ってしまう。

合気道では形を繰り返し稽古することによって技を磨いていくが、多くの稽古人は形を覚えると、合気道はできたと考えがちのようだ。しかし、形を一通り出来てからが本当の稽古のスタートなのである。

合気道の稽古では、指導者が大勢の稽古人に形を示し、その形をみんな繰り返し稽古するので、先生と一対一で稽古をしていた昔の武術のように、技の微妙な感覚や秘術を先生から教えてもらうことはほとんどなくなった。

技を磨いて上達するためには自分の努力だけでは不十分である。先生、先輩、同輩や他分野など、自分のまわりのものを師として、その師から学ばなければならない。時として人は出来上がってしまい、自己満足してしまうが、それでは進歩がない。

まず、これはと思う先生、先輩などの技だけでなく、一挙手一投足を真似するようにするのがよい。歩き方、お辞儀の仕方、カバンの持ち方、湯飲み茶碗の持ち方、等々である。

また、合気道は二人で組んで稽古するので、相手の優れているところを見つけて真似し、自分の技や動きに取り入れていくべきである。武術の時代なら他人には見せない技や秘術も現代では隠す必要がないので、容易に盗むことができるだろう。本来、技は盗むものであり、教えてもらうものではないし、教えられるものでもない。しかし、よほど問題意識を持ち、集中した稽古をしないと盗めるものではない。また、相手が自分より未熟でも、必ず自分より優れているものをもっているものである。それを見つけられないとしたら損である。岩間の道場で開祖を撮ったフィルムを見ると、開祖は弟子の稽古を目を光らせてご覧になっていた。下手なものの技や動きも参考になるということである。

合気道の稽古人は、自分の体を動かしての稽古はするが、他人の稽古を見るということはほとんどない。見るのは、はじめに形を示してくれる先生の形ぐらいだろう。しかも、自分が早く体を動かしたくて仕方がないので、じっくり見ることもしていない。

他人の稽古を見るのは、非常に勉強になる。いわゆる見取り稽古である。自分より上の人の稽古もいいが、下の人のも大いに勉強になるはずでる。自分より上手い人の技は盗んで、後で真似してやってみればいい。上手く行かないところを見つければその原因はどこにあるのか考えればいい。ときどき見取り稽古をするとよい。怪我をして稽古ができない時などには、見取り稽古がよい。 合気道だけではなく柔術や古武道などの演武を見て研究し、自分の技に取り入れていくのもよい。古武術は先人たちが苦労して創り上げ、長年にわたって継承してきた人類の素晴らしい遺産である。また、合気道のルーツが分かるだろうし、合気道の形の意味などがわかり、大いに得るところがある。というより、柔術などの古武術を知らなければ真の合気道は分からないはずである。

最近は多くの武道書が出版されているし、インターネットでも関連情報を見ることができる。特に、ビデオやDVDは映像で見られるので非常に参考になる。人が集中して本当に稽古できるのはひとつのことだろう。合気道をやって、その上剣道、空手など別の武道をやるのは合気道を認めていないことになり、合気道に対して失礼である。しかし、合気道のためにいろいろな武道を研究するのは必要であるし、それは合気道にとっても他の武道にとっても失礼には当らない。ひとつのことを深くやっていくためには出来るだけ多くのことを知らなければならない。そういう意味で、本やビデオ、DVD,それにインターネットなどを活用できるのは有難い。

自分の「師」はいろいろあるし、どこにでもいる。しかし師はそちらから来て教えてはくれない。待っていないで、自分で「師」を見つけて、技を盗み、真似して、自分のものにしていきたいものである。