【第678回】 稽古と修業

過って本部で教えておられた有川定輝先生は練習と稽古について、「欧米からきたスポーツの練習では指導できるが、元来、日本古来の武道や茶華道の稽古では指導するものではなく、それ故、合気道は自発性がなければ前進がない。従って、自ら手本を学ぶ、自分の目で見、頭で考え、繰り返し行い習得するという積極的意志を働かさなければならない。」と言われていたと聞く。

練習と稽古の他に「修業」というモノがある。合気道を続けている身として、合気道や技を練習しているといういい方は合っていないと思うし、練習をしているのではないと思う。また、合気道を修業していると言いたいのだが、修業というような修業をしているとも思えないので、やはり合気道を稽古していると、今のところは「稽古」が相応しいように思える。
しかし、いつか「合気道を修業している」と言うようになるようにしたいと思っている。

修業は稽古よりも密度が高いモノでなくてはならないだろう。稽古が、有川先生の定義では、「自ら手本を学ぶ、自分の目で見、頭で考え、繰り返し行い習得するという積極的意志を働かすなど、自発性がなければならない」ということだから、この定義を満たし、そしてこれらの密度を更に濃くした上、新たな要件を満たさなければならないと考える。

その修業のための要件を自分なりに考えてみたいと思う。
合気道を創られた大先生をはじめ、厳しい修業をされた方々と、我々一般の稽古人を比べれば、その答えが得られるのではないかと思う。
ます、修業者と稽古人のやり方の比重や密度の違いであろう。肉体的と精神的打ち込み方が違うはずである。また、一日でも、修業期間中でも、稽古に占める時間の密度が、我々の稽古人とは格段に高いはずである。
更に、修業は命が懸かっているだろう。もし間違えれば命を落とす危険性がある。稽古ではそれはない。
もう一つ、稽古は己の為にやっているといっていいだろう。修業は世のため、人のためにもなるようにやるように思える。
大先生は勿論だが、1000日回峰の行者も、世のため、人のために修業されたし、この使命感がなければ、命を懸けるような修業はできないと思う。

先述のように、自分も稽古から修業に入りたいと思う。合気道の稽古人から合気道の修業をしていると言っても恥ずかしくないようにしたいと思うのである。
それは容易ではないだろうが、挑戦はできる。
今の稽古から、少しずつ修業の段階に入っていくのである。稽古時間の割合を増やし、稽古の密度を濃くし、もっと真剣に稽古をしていく、自分のためだけではなく、後進や後輩、そして後の世の合気道家の為になるよう、更に人類の為等々意識して稽古を続ける事であろう。


参考文献  『七大学学生合気道連合会 有川定輝先生追悼記念誌』