【第677回】 高齢になっての修業心得

若い頃は十分に稽古をしたと思っている。他の人から見たり、比べれば十分などと言えないだろうが、自分ではこれまでの稽古に満足しているから十分といっていいだろう。
しかし、今思えば、十分に稽古をした割には、合気道のことはほとんど分かっていないし、技のつかい方もわかっていないと痛感する。だとすると稽古は不十分だったことになる。

もうすぐ喜寿も過ぎてしまうが、50,60才と同じような力づくの稽古は出来ないし、また、してはならないと考えている。若い頃には若い稽古、高齢になったら、高齢になって初めてできることをやらなければならないと考えるからである。
そこで高齢になっての修行法を考えてみたいと思う。

まず、若い頃(50、60歳代まで)はどうしても、相手を何とか倒そうとする、対相手の相対的な稽古になる。そして相対稽古はぶつかり合う、争いの稽古に結びつく。
しかし、若い内の稽古はこのぶつかり合い、力を出し合い、そして受け身を取り合う稽古が大事だと確信している。これをどれだけやるかが、高齢になった時に関係するからである。若い頃に力一杯、ぶつかり合って稽古をしないと、高齢になってもそれを続けてしまう事になり、その稽古から抜け出せなくなるのである。やるべき事はやるべき時期があるので、そうしなければならないだろ。一生懸命に稽古をしていれば、己の体と心が教えてくれるはずである。

高齢になったら、若い頃のやり方を変えなければならない。上達をしないだけではなく、体を壊すことになるからである。80,90才になって、若い頃のように、毎日、2時間も3時間も稽古を続ける事はできないだろうし、そもそもやろうとも思わなくなってくる。これが自然であろう。
しかし、合気道は武道であり、習い事なので、高齢になっても、というより、年を取れば取るほど、高齢になればなるほど、上達しなければならない。己の若い頃より、上手くならなければならないのである。若い稽古相手に力負けせず、若く元気で力のある相手を制し、導かなければならないのである。

そのために、若い頃と同じような稽古、周りの若者と同じような稽古をしていては、力のある若者に力負けしてしまうから、これまでのやり方を変えなければならない事になる。
上記と別に、変えなければならないやり方は、道場での稽古、道場以外の+αの稽古、稽古の考え方などがあるだろう。

先ず、「道場での稽古」を変えなければならない。これはこれまで書いてきているので、詳細は省くが、例えば、宇宙の法則に則った技づかいをしていくことである。少しでも多くの法則を見つけ、技に入れ、身につけていくのである。
もう一つ加えれば、道場は若い頃や初心者の頃の教えて貰うところから、大先生の思想や哲学、自分の考えを試したり、研究、反省するところに変えなければならないと考える。

次に、「道場以外の+αの稽古」である。若い頃のように、毎日の道場稽古はできないが、武道であるから毎日、稽古をしなければならない。人間の心体は一日周期で活動しているように思えるからである。
それでは毎日、稽古するにはどうすればいいかということになる。自宅でやればいい。自分でプログラムをつくり、それを毎朝やるのである。高齢者になれば、時間的な余裕ができるので、朝起きてやればいい。起きてすぐやれば、忘れる事もないし、時間に追われて、今日は止めということもなくなる。勤めていた若い頃は、大事な商談があったり、朝早く出掛けなければならないとか、夜遅くて寝坊するなど、朝はなかなか思うように稽古が出来なかったが、高齢になり、仕事が無くなるとそれが無いので、思うように稽古ができるはずである。

この朝稽古は、「禊(みそぎ)」である。心と体を禊ぐのである。木刀や杖を振ったり、四股を踏んだり、柔軟体操をし、詔を唱え、水を浴びる。終わった後は、大先生の言われるように、気持ちがすっきりする。また、この禊ぎをしないと、一日気持ちがよくなくなるのである。

この禊ぎのプログラムは少しであり、短時間であっても、毎日やることに意味があるようだ。毎日やっていると、心体が毎回、何かを教えてくれるので、毎日、続けていると、昨日の教えの上に今日の教えが重なりと結構な教えになる。一日この禊ぎを休むと、教えが現れなくなったりして、以前の状態に後退してしまうのである。
禊ぎのプログラムをつくって、少しずつでも、毎日やるのがいい。

この朝の禊ぎをやってくると、大先生が言われる、「合気道は禊ぎである」ことがよく分かる。若い頃は、合気道は武道であり、相手を殲滅する技を身につける道だと思っていたが、それを大先生は、「中古の覇道的武道」と言われておられるから、禊ぎに変えなければならないことになる。
この禊ぎなら、自分のペースでいつまでも、そして最後までできるだろう。