【第676回】 若い稽古から高齢への稽古へ

合気道の修業に終わりがない。そして又、修業を長く続けるほど上達しなければならない。つまり、高齢になっても、若い頃より上達していなければならないわけである。
これは修業の鉄則である。若い頃の自分より、高齢になった自分の方が、上手くて、強くなければならないわけである。
スポーツとの違いは、スポーツは頂点でやめていくが、合気道の頂点は最後にあるわけだから、最後が最高になるように修業しなければならないことになろう。

高齢になれば、腕力、持久力などの体力が若い頃に比べて劣化してくるから、魄の力でやっていけば、若者には敵わなくなってくるし、己の稽古の限界を迎える事になる。
何か若者に無い力で技をつかっていかなければならないことになる。

例えば、腕力ではない力の呼吸力である。陰陽兼ね備えた、息の導きによる力をつかうことである。若い頃のように、腕力や突進力などでの呼吸法ではなく、呼吸力がつく呼吸力養成の稽古をしなければならない。
尚、この呼吸力の養成は修業の終えるまで続けなければならないと思っている。呼吸力の量と質を高めることを最後まで継続するのである。

次に、技を掛けるに際して、若い頃にがむしゃらに掛けていた技を、法則に合わせてつかう事である。例えば、技と体を陰陽十字につかうのである。
技のうまさはこの法則を如何に多く、そして質を高くするかに掛かっていると言えるから、稽古の年月が掛かるので、年を取れば取るほど、高齢になればなるほど沢山の高い質の法則が身に着くことになる。

若い頃は、見えるモノを信じ、価値を置いて稽古もし、生活もする。稽古相手も、大きい、小さい;重い、軽い;怖そう、やさしそう;強そう、弱そう等と見てしまい、そして選んでしまう傾向にある。
高齢になると、見えないモノを見るようにすることだ。見える外観ではなく、見えない心を観るのである。心の稽古である。稽古相手の心が観えてくれば、宇宙の心も観えるようになるはずである。心で稽古をしていけば、国や地域に関係なく、また、人間以外に自然、そして宇宙とも稽古ができるようになるはずである。

若い頃は自分を信じ、自分の力や気力で技を掛けてきた。高齢になってくると、自分の力だけでは限界があるし、自分の力の不足を痛感してくるはずだ。
つまり、このままでは上達が止まってしまうという限界を感じようになるのである。
この限界の壁を破り、更にこれまで以上の精進をするためには、自分以外の力、宇宙の力をお借りすればいいということが分かってくる。日月の気、天地の息に合わせての技づかいである。阿吽の呼吸が大事である。また、阿吽の呼吸の前に、イクムスビの息づかいを身につけなければならないだろう。

50才、60才ぐらいまでは若い稽古が続けられるだろう。力一杯技を掛け、思いっきり投げ合い、受けを取り合う稽古で、汗をびっしりかいて、足腰が立たなくなるまでする稽古である。
力と体力(エネルギー)を使い切る稽古である。力とエネルギーを使い切ると、稽古をやったと満足するし、そうでなければ未練が残る。ということは、力と体力の使いきりが若い稽古の主な目的であると言ってもいいだろう。人によってその程度のほどは違うだろうが、誰でもその程度に応じて、“今日はいい稽古ができた”と満足しているはずである。

勿論、若い稽古の特徴はこのほかにもある。若い頃は気がつかないわけだが、年を取って高齢になるとわかる。
例えば、若い内は自分に自信がある。自信があるから、他人に負けないよう稽古もするので、若者同士ぶつかり合うことになる。高齢になると、それは自信というより過信だったと言った方がいいと思うようになる。
実際に自分は何でも知っている、出来ると思っているようだが、50,60才ぐらいでは、何も知らないと言っていいだろう。私もそうだったが、例えば、合気道とは何か? 何を目標に稽古するのか? 合気とは何か? 道とは何か?等知らなかったし、知ろうともしなかたし、知らない事を恥ずかしいとも思わなかったものである。
これが高齢になって初めてわかってくるものである。だから、真の稽古は高齢になってから始まるのではないかと思っているのである。