【第675回】 余裕を持つ

今の世の中は余裕がない様に見える。人にも社会にも余裕がなく、ぎすぎすしている。お金の余裕をはじめ、時間的な余裕、心・気持ちの余裕に欠けているように思える。今起こっている悲劇や事件は、この余裕の無さ、余裕の欠如から起こっていると言ってもいいのではないだろうか。

辞書によれば、余裕とは、1.必要以上に余りあること 2.限度いっぱいまでには余りあること、とある。
これを日常の具体的な例で見てみると、1.の典型的な余裕の例はお金であろう。衣食住と基本的なものを満たすためのお金が十分り、それ以外につかえる分のお金があるということである。
また、2.の例は、腹は八分目であろう。まだ、二分食べる余裕があるわけである。

誰でも、余裕を持って生きたり、合気道などの習い事をし、自分を磨き、成長させたいと思っているはずであるが、その余裕がないのが現状であろう。
しかし、余裕を持たなければ楽しく生きていくことも、満足して死んでいくことも出来ないと思うので、どうすれば余裕を持つことができるかを、合気道の教えに則って考えてみたいと思う。

そこで先ず余裕には、お金やモノの余裕と心や気持ちの余裕があり、前者は物質的余裕、見えるモノに対する余裕、魄の余裕であり、後者を精神的余裕、見えないモノに対する余裕、魂の余裕ということにする。
合気道ではこの精神的な余裕が物質的な余裕よりも大事であるとはいっていないが、精神的な余裕が物質的な余裕に優先すると教えられている。もう少し詳しく言うと、物質的余裕が土台になり、物質的余裕と精神的余裕が一体化し、精神的余裕が物質的余裕を導き、人を幸せに導くのである。
従って、物質的余裕、見えるモノに対する余裕はある程度、楽しく生きていくためには必要であり、そしてこれが生きていく土台(ベース)となるので大事であるが、このベースの上ある精神的余裕、見えないモノに対する余裕、魂の余裕は更に大事なのである。簡略すると、物質的余裕に満足することが精神的余裕であると言ってもいいだろう。
因みに、合気道で鍛錬する技は、物質的余裕(魄)が土台になり、物質的余裕(魄)と精神的余裕(魂)が一体化し、精神的余裕(魂)が物質的余裕(魄)を導くようにしないと、その技は効かないのである。

具体的な例を挙げると、敗戦後の日本は食べるモノも、衣も住も欠乏し、物資的な欠乏状況にあったが、人は将来の幸せを信じ、助け合い、労わり合いながら生きていた。つまり、物質的余裕はなかったわけだが、精神的余裕があったわけである。当時の写真や映像を見るとそれがよく分かる。
それに引きかえ、今はその逆で、物質的余裕はあるが、精神的な余裕がないといえるだろう。そして物質的余裕がなかった戦後とくらべて、精神的な余裕がない現在は、悲惨な問題や事件が起きているのである。

物質的余裕を持つのは、人によっては難しいだろう。自分ではどうしようもないことが多いからである。お金やモノ持ちになるためには、才能と努力の他に運が要る。才能と運はほぼ決まっていてどうしようもない。残すは努力であるが、これにも限度があるだろう。
しかしながら、今の世の中、憲法でも保障してくれているように、最低の衣食住は保障されていることになっているから、最低の物質的余裕を持つことが出来るのではないかと思っている。

そこで精神的な余裕を持つことである。心の余裕である。これは持とうとすれば誰でも持てるはずである。心で思えばいいからである。最低の物質的余裕はベースに控えているわけだからである。
この精神的な余裕は金持ちも貧乏人も関係ない。金があるからとか、大きな家をもっているからとか、大会社のCEOだから、心に余裕があるわけではない。貧乏人が心の余裕がないという決まりもない。各人の心次第である。

ではどのようにして、心に余裕、精神的な余裕を持つことができるかということになる。合気道の教えで説明する。
まず、心に余裕がない最大の原因は、自分がどう生きていけばいいのか分からない事であろう。何に向かって生きていけばいいのか、何の為に生きているのか、何処から来て何処へ行くのか等々皆目見当がつかないことである。
無意識のうちにこの問題を抱えているが、無意識でこの課題から避けようとしているようである。
子供の頃はそのようなことを考えないだろうし、学生時代は勉強していい仕事に付くことが頑張る目標にあるだろうし、そして仕事につけばいい業績を上げてお金を稼ぎ、家族を養うことが働く目標であり、生きる目標になるだろう。
しかし、定年になり、仕事を止めてしまうと生きる張り合い、生きる目標が無くなってしまい、心の余裕がなくなるわけである。

合気道では、魄、つまり形を持った人も万有万物は使命を持たされてこの世に現れたという。その使命とは、地上に、天国にあるような楽園を建設し、完成する支援の生成化育である。少しでもそのお手伝いが出来るように生きていくのである。学業も仕事もその一端なのである。それ故、この生成化育に大きく貢献した人は、ノーベル賞とか、絵画、音楽等‥で大きく評価されるわけであり、これまで誰も異議を唱えていない。

地上天国楽園建設は一人とか一代で出来るものではない。地球上の多くの人間や鳥獣虫魚草木等‥の万有万物が何100、1000世代にも亘って生成化育を繰り返していかなければならない。
それ故、己だけ心の余裕だけではなく、一緒に天国建設の生成化育を支援している同朋(世界中の人々、万有万物)に一緒に頑張ろう、頑張ってくれて有難うと激励と感謝の心を持つことができれば、心の余裕ができるはずである。これを合気道では、ここから愛が生まれるということになる。

もっと身近なことから、心の余裕を生む方法がある。簡単だが重要だと思う。それは、「有難う」「御免なさい」の感謝の言葉と謝罪の言葉を素直にいう事である。この言葉が出るのは、心に余裕があるからである。その言葉を聞くと、ああこの人は心に余裕がある人だなと思うからである。子供たちは、この「有難う」「御免なさい」を自然と当たり前に言っているだろう。高齢者は以前言っていたはずである。もう一度、素直に「有難う」「御免なさい」を言ってみてはどうだろうか。心に余裕があるかどうかを確かめるため、その余裕を持つために。