【第673回】 “うた”もいい

年を取ってきて、若い頃と違ってきたなと感じる事の一つに、モノには興味がなくなってくることである。大きな邸宅、高価な車、流行の服装、豪華な料理等に興味がなくなってくるのである。
反面、心や気持ちへの興味が増してくる。まず、己の心や気持ちを大事にするようになる。人様や世間に迷惑を掛けなければ、自分のやりたいようにするようになる。また、他人の気持ちも尊重し、受け入れられるようになってくる。
親と一緒にいる幼児や子供の純な気持ちは、直に心に響いてくるようになる。昔は、7歳までは子供は神の子として扱われていたようだが、それが分かる。赤ん坊や幼児は、まだ宇宙と結んで、宇宙の意志で生きている、純で、自然で、悪も善も穢れを知らないよおうに見える。
また、混んだ電車で若者が高齢者に席を譲る心にも感動、譲った人に幸あれと願う。。

草花や木々も姿かたちだけでなく、心があるようである。
若い頃、御蔵島に林道建設のアルバイトで3か月ほど行っていた。道をつくるに当たって、まず、立ち木を切り倒すのだが、それほど太くない木は斧やナタで切り倒すのだが、ただ力一杯切っても木は抵抗してきて上手くいかないのである。弾き返されたり、切れても切れ味悪く、切り口がギザギザなのである。そこでどうして上手く行かないのかを考えた。そして木の立場に立ち、木の気持ちになって考えてみた。木としてはこれまで平和に暮らして来たのに、突然理由もなく、斧やナタをぶつけられるわけだから、腹も立つはずである。
そこで切り倒す前に、ここに道をつくるためにどうしても切らせてもらわなければならないと説明し、そして切る事の詫びとお願いを心でして切ると、見事に切れるようになったのである。このことが基で木にも心があると確信したわけである。

万有万物には形があるが、すべて異なった姿かたちをしている。このために異なる姿かたちのモノ同士が分かり合うのが難しいのだと考える。
しかし、異なる姿かたちのモノにも心がある。そしてこの心は姿かたちが異なっても同じであると思う。何故ならば、その心は宇宙の心であるはずだからである。宇宙の心とは、宇宙の完成を目指す同じ生成化育の心であり、万有万物が持つ使命だからである。

山川草木など万有万物と分かり合えるのは、心や気持ちである。目に見える姿かたちで良し悪しや優劣を判断したり、実行する顕界ではなく、目には見えない幽界での心を見るようにしなければならない事になる。
それではどうすれば顕界を離れ、幽界に入り、心が観えるようになるのかということになる。
まず、我々合気道家はそのために合気道の稽古をしていることを再認識することである。体や力の魄を土台にして、心で技と体をつかい、相手の心と体を制し、導く稽古をしているはずである。これを合気道は魂(心)の学びであるというのだと思う。

次に、己の心を、他の心を感じるように、敏感にすることであると考える。
その一つは“うた”である。“うた”は、和歌や俳句であり、歌であり詩である。いい“うた”はモノよりも心を大切にしているようだからである。
“うた”を詠んで感性を磨き、心を敏感にするのである。
私はこのことに最近気がついたばかりなので、後どのぐらい勉強できるか知らないが、若い人たちには是非、若い内、出来たら子供のころからやって欲しいと思う。百人一首などを覚えるのもいいだろう。百人一首や万葉集など暗記できていれば、きっと他を思いやる繊細な心の持ち主になるはずであるし、いずれこれはモノや力よりも高価になるはずである。
勿論、いい絵を見れば、心を養う事もできるが、これは中々難しいのではないかと思うので、“うた”から始めた方がいいように思う。

更に“うた”で心を敏感にするのだが、今度は、“うた”をつくることである。これは“うた”を詠んでばかりいるよりは効果的であると考える。
“うた”を詠むということは、対象物の心を感じなければならないわけだから、対象物の心になる。対象物と己の心が結び合い一体化することになる。勿論、上手くは詠めないだろう。しかし、それはあまり問題ではない。大事なのは心を感じる事であるからである。その内、少しずつ上手くなっていけばいい。
二、三日前(2019.1.28)に東京で春一番が吹いた朝、禊ぎのストレッチ運動をしながら窓から見ていた木が、春一番で揺れている時の様子を詠んだ“駄歌”である。

枝ゆれて 樹も体操か 春一番

これまで寒い冬でかじかんだ木の枝を、春になってこれから活動しようとストレッチ運動をしているように観えたものである。

このように見たものの心を“うた”で詠んでいると、見えない世界の幽界に入ることができ、己の心と対象物の心を繋ぐことができるようになり、そして万物からいろいろ教わることができるようになると考える。