【第672回】 精神の武

合気道は、魂の学びであるという。合気道は魄の力で相手を殲滅したり、魄の力を養成する武道ではないということである。
また、合気道は技の形稽古で精進していくが、これは合気道の目的ではなく、最終目標に至る準備段階であることを肝に銘じなければならない。技の形を覚え、多少つかえるようになったからといって、合気道が出來たと満足してはならない。これを大先生は、「合気道の技の形は体の節々をときほごすための準備です。」と言われているのである。
魂の学びの合気道に入っていくためには、まず、この二点に気付き、己の稽古を変えなければ、魂の学びには進めないだろう。

魂の学びの稽古に入ろうと苦労している。腕力に頼らないで技を掛けたり、息で体と技をつかうようにしたり、阿吽の呼吸で技を掛けたりしている。
そして、大先生が言われる「魂の学び。魂魄阿吽の呼吸。」が、初めはチンプンカンプンだったが、少しずつ解るようになり、その道の先が見えてくるようになった。

最近の論文で書いているように、諸手取呼吸法や二人掛け諸手取呼吸法でも、相手が自ら浮き上がり、そして自ら倒れるような技が、これまでの相手を腕力や勢いで倒して来たのとは180度の転換であり、これが正しい合気道、真の武道のやり方ではないかと思えるのである。何故ならば、大先生は、「真の武道は相手を殲滅するだけではなく、その相対するところの精神を、相手自ら喜んで無くさしめるようにしなければならぬ和合のためにするのが真の武道、すなわち合気道である。(合気神髄 P.173)」と言われているわけだが、まさにこの気持ちになれるからである。勿論、体力が有ったり、力が並み以上に強い相手には、上手く行かない場合もあるが、道が正しければ、後は稽古を精進すればいいだけだと考えている。

また、諸手取呼吸法や二人掛け諸手取呼吸法をこのやり方でやっていると、これが大先生が言われる「精神の武」であろうと思える。大先生は、「精神の武は魄阿吽をもって明らかなる健やかなる清き力を出し、つとめて尽くすに至るべし。(魄とは身体の上に魂の花を開き結んで、人としてあらゆる条件に叶えるもの)(合気神髄 P.61)」と言われているのである。
私の論文に書いているように、例えば、諸手取呼吸法は阿吽の呼吸によって、天地を結び、手先と腰腹を結び、相手が掴んでいる手に腰腹の力を伝え、この腰腹の魄を土台にして、“天地の明らかなる健やかなる清き力”の心(魂)で相手を導くのである。
諸手取りを力の強い相手や二人掛けで出来るとすれば、よほど腕力があれば別だが、この「精神の武」でやらなければならないと思う。
そしてまた、更なる「魂の学び」に進むためにも、この「精神の武」の関門をくぐらなければならないだろうと考える次第である。