【第670回】 魄の力を出さないために

合気道は魂の学びである。つまり魄の学びではないということである。魄の力の腕力や体力の学びではないということである。体力や腕力を養成したり、そのつかい方を学ぶことではないのである。
しかし、合気道は精進するために技を錬磨するわけだが、技づかいにおいて、どうしても魄の力でやってしまうのである。何とかして、この魄の力を出さないで技がつかえるようにならなければならないわけである。

魄の力を出さないということは、魄の力を全然出してはいけないとか、魄の力が必要ないということではない。
魄の力を出さないというのは、何かの前に魄の力を出しては駄目だという事である。魄の力の前に何を出すかというと、魂である。魂は難しいから、取り敢えず、心や気持ちとする。つまり、心や気持ちを出してから魄の力を出さなければならないということになる。
また、魄の力は必要であり、重要で、強ければ強いほどいい。魄は技をつかう際の土台になるので、土台がしっかりしていなければならないのである。
魄の力が土台になり、まず、心や気持ち(魂)を出して、この魂が魄の力の上になり、魄の体や力を導くのである。

魄の力と心や気持ちは、物質と精神と異質であるので、本来は一緒にはなれないし、共に動かすのは難しい。それ故、これを結び、一体化して動かす媒体が必要になる。それは呼吸であろう。呼吸によって体と心に気を生み出し、気で体と心、そしてまた、相手と結び一体化し、息、そしてその息からの気によって、技と体をつかうのである。

息は阿吽の呼吸である。片手取り呼吸法を想定して、その息づかいを説明する。
阿で天からの気を腹から地に下ろし、同時に腹から上にも気を上げ頭を通って天に流す。また、腹から上に上がる気を、胸のところから肩、腕、手先に流す。ここで相手が手を掴んでいれば、阿(アー)の引く息で、一体化した相手は浮いてくる。手を動かすのではなく、つまり、魄の力を出すのではなく、息と気で己の体と技をつかうのである。
後は、吽(ン)で、気と息を下ろし、手をそれに従って下ろせばいい。

手や体を先に動かすと、相手とぶつかるので、力に頼ることになる。また、息を吐いてやると、同じように、相手とぶつかるので、力に頼ることになり、魄の稽古になるわけである。だが、体力や腕力をつけるのにはいいから、この魄の稽古も必要であるし、必須であると考える。しかし、ある程度の所から、魄の力に頼る、魄の稽古を脱しなければならない。
さもないと、魂の稽古に入れないし、宇宙の力が借りられないし、そして体を壊すことにもなるからである。

更に、魄の力を出さないために注意することがある。
片手取り呼吸法でも、持たせている手を上げようとしたり、相手を倒そうとすれば、これは魄の力に頼ることになり、魄の力を出さざるを得なくなる。
合気道の技は相手を投げたり、抑えたりするのではない。相手が自ら喜んで倒れてくれるようにしなければならないのである。前述の阿吽の呼吸で己の体と技をつかえば、相手も自らこれに従い、そして自ら倒れるのである。倒す必要はないのである。魄に頼る必要がないから、魄の力を出す必要もないのである。