【第67回】 感動を求めて

子どもは見るもの、聞くものに目を輝かせ、驚いたり、喜んだり、感動をし、感動を表現するが、大人になり、高齢者になってくるとそれがだんだん少なくなってくる。合気道の稽古でも、入門したてのときは、受身ができたとか、四方投げができたとか、あいつを倒したとなどと、毎日何かがあり、喜んだり、感動したのだが、高段者になってくると稽古においても感動はだんだん少なくなってくるようだ。

合気道の稽古の感動は、それまで出来なかったことが出来たとき、分からなかったことが分かったとき、自分の新しいものを発見したときなどに得ることができる。一生懸命にやればやるほど、真剣にやればやるほど、出来たときの感動は大きい。初心者のときの感動は、長い時間と多くの努力をした結果というわけではないので、高齢になって得る感動とは質が違うかも知れない。

合気道の技を使うとき、上手く技を掛けるには、基本的なことが出来ていなければかかるものではない。例えば、手足を同じ側で同時に使う、所謂ナンバでなければならないとか、手は"汽車ポッポ"のように陰陽で使わなければならないとか、肩を貫く等々であるが、このようなファクターを見つけ、自分のものにしていくことは容易ではない。稽古とはそのファクターを見つけることと、それを使えるようにすることである。容易に見つかるファクターもあろうが、何十年もかかるものもあるし、まだ見つからないものも沢山ある。基本技が上手くできないのはファクターが見つかっていないからだ。

稽古では何か発見がないと、上達はない。今日の稽古で何もなかったとしたら、昨日と変わっていないということであり、明日も、また1年後、10年後も変わらないかも知れない。

発見は感動である。感動がなければ上達はない。高齢者の稽古から得る最大の感動は、合気道を深く掘り下げていく中にあるだろう。掘り下げていくことによって合気道が上達するだけでなく、自分、人間というものが分かるようになってくるし、自然、宇宙などとの関係も深まってくる。そして自分、人間、自然、宇宙などへの新しい発見があり、感動するようになる。感動を得ることができるように、稽古していきたいものである。