【第66回】 気合、言霊、響き、山彦の道

力を出そうとするときは、誰でも気合を入れて声を出すとより大きな力がでる。重いものを持ち上げるのに、黙って粛々とやったのでは出る力も出ない。開祖も大の男数人でもびくともしない巨石を「う」と発して動かしたといわれている。また開祖は「合気道は手で触って倒すのではない、エイッ! 気で倒すんじゃ」とも言われた。祭りの重いお神輿も掛け声をかけ、気合を入れるから担げるのである。

武産合気の武産の「武」のそもそもは「雄叫び」であり、五体の響きが宇宙の響きとこだまする「山彦の道」こそ合気道の妙諦にほかならない、ともいわれた。

私が稽古を始めた頃は、天之鳥船(船こぎ運動)は勿論のこと、技の稽古中も「エイ」などと声を出して稽古していた。しかし最近は稽古人も増え、また近所のこともあるしで、稽古前後の挨拶の言葉以外はほとんど声を発することがなくなった。

合気道の根底にあるのは「合気」ということであり、合気とは言霊の響きによる禊の業をいうとされ、また、合気道とは、言霊の妙用であるともされる。言霊とは宇宙の響きを感得することであるという。従って、言霊には「あおうえい」の5母音や75音、祈りの言葉などがあるが、それに雄叫び、気合もあるということになろう。特に一般には、開祖のように「あえいおう」と唱えながら神楽舞をすることもないであろうから、稽古で使うのは気合であろう。開祖は気合の大切さを道歌で、「己が身にひそめる敵をエイと切りヤアと物皆イエイと導け」と唱っている。

一般的にいって、言霊は発声を伴うものであるが、他方に発声を伴わない想念だけで行なう無声の気合(言霊)もある。発声を伴わなくとも、気力を充実して気を出されると、こちらは金縛りにあったように何もできないようになってしまう。開祖や開祖の高弟は発声をしなくとも、傍にいるだけで気が萎縮させられる思いがしたが、あれで気合を入れられたら衝撃をうけて飛ばされたであろう。あるとき、開祖が稽古中に道場にお客を連れてこられて合気道の話をされていたことがあり、開祖が気合を掛けられたが、その時そばに4−5人正座で控えていた内弟子の一人が後ろにひっくり返ってしまったことがあった。いまでいう「遠当て」だったのだと思う。

晩年の開祖はだんだん気合を掛けられなくなっていた。しかし、気力はますます充実し、ますます素晴らしい演武をされていた。

力を出すには、発声を伴うか、無声であるかの違いがあっても、気合は必要だ。声を出せない状況にあれば、無声の気合を発する稽古をしていかなければならない。

開祖は「五体の響きが宇宙の響きとこだまする山彦の道こそ合気道の妙諦にほかならぬ」とされ、五体の響きが大切であるという。山彦の道とは気の響き合いのことであり、自己の発した言霊が宇宙の波動と共鳴し合うことだという。

合気道の本来の目的は、宇宙の気の響きを感知することであるが、気合を入れずに何もしないのであれば、宇宙の気の響に触れることはできるはずがないだろう。宇宙の気の響きを感知するためには、気合をいれて自分を響かせ、宇宙の気の響きと共鳴させる山彦の道を行かなければならないということになろう。「気合、言霊、響き 山彦の道」を再考し、修行していきたいものである。