【第651回】 すべての動作に技を

合気道の初心者を見ていると、相対での形稽古は一所懸命に気力を込めてやっているようだが、準備運動や稽古後の掃除などは、それほど気力を込めてやっていない。準備運動や柔軟体操など、あれで効果があるのかと思えるような、気の抜けた、力が抜けた運動になっているのは寂しい。

稽古とは、己のレベルアップをしていくことである。己の限界を紙一重でもレベルアップしていくのである。だから己のレベルアップなど中々気がつかないはずである。その紙一重が10年、20年と積み重なって段ボールほどの厚さになり、一寸上達したかなとなるのである。

レベルアップしたければ、限界以上のことをするわけだから、容易ではないはずである。準備運動でも、痛くて曲がらないとか、堅くて動かない箇所を機能するようにするわけだから大変なはずである。よほど気持ちを入れ、痛さを我慢しなければならないはずである。自分との戦いである。

更に、手首でも肘でも、如何なる箇所の柔軟運動でも、ただ無暗に力を込めてやればいいというものではない。その動作に技が入らなければならない。技とは、合気道の技であり、法則である。十字、陰陽である。更に、合気道の形稽古でつかう息づかいでやらなければならない。何故ならば、準備運動や柔軟体操も形稽古の技づかいの動作も同じであるからである。
だから、準備運動の動作を見れば、合気道の技がどの程度なのか、一目同然なのである。勿論、掃除で、ほうきを使う動作、雑巾をかける動作でも、技づかいのレベルはわかる。

逆に言えば、掃除をしっかり、つまり、気持ちを入れ、力を込め、そして技の法則に則ってやれば、合気道の技は上達することになるし、準備運動も同じようにしっかりやっていけば、技は上手くなるということになるわけである。

技が上手くなればいいと、それ以外の準備運動とか掃除を、気を抜いてやっていれば、技の上達につながらないだけではなく、その時間を無駄に過ごすことになり、もったいないことになる。一日は24時間しかないし、人の一生も永遠に生きられるわけではなく、いずれお迎えが来る。準備運動だからといって気を抜かない事である。時間を上達のために、少しでも有意義につかうべきだろう。