【第644回】  神話と合気道

大先生は、合気は古典の古事記の実行であるとか、古事記の宇宙の経綸の御教えに、神習いまして日々、練磨していくこととか、古事記によって、技を生み出していかなければなりません等と言われていた。そして古事記を「我が国の法典と言って、重視されていた。
当時は古事記にそれほどの意味や重要性があるとは思えなかったし、大先生の神様のお話などよくわからなかったが、最近、合気道においての古事記の重要性に気が付き始めたので『古事記』を、合気道と関係づけて、何回かに亘って研究してみたいと思う。

古事記は物語であり、特に神話である。
物語とは、人から人に語りつがれる話である。物語には、伝説、昔話、神話の三つがある。「伝説」は、個人的な物語でなく、多くの人に共有される物語であり、「昔話」は、特定できない時の、特定できない人や物の物語である。「神話」はひとつの部族、国家などの集団との関連において、より公的な意味合いをもつものである。しかし、神話は、「物語の意義という点で言えば、伝説や昔話と本質的にはあまり異ならない。」(河井隼雄)と言われ、また、心理的にも、これら三つ(伝説、昔話、神話)の物語は本質的にそれほど差のないものと考えられている。

人間は、「物語」なしに生きていけないといわれる。
「物語」はいろいろな面で「つなぐ」はたらきをもっている。モノを語ることによって、例えば、親と子供、世代と次世代、社会や職場の人と人などとつながる。愚痴や嘆きや自慢などである。だから、物語が消えれば、それらのつながりがなくなる。勿論、ここでの物語には、伝説、昔話、神話の他、自身の物語も含まれる。

伝説、昔話、神話の物語は語りつがれていかなければならない。
「神話をなくした民族は命をなくす」(フランスの神話学者デュメジル)と言われる。有難いことに、日本には伝説、昔話、神話の物語が語り続けられている。これが再評価され、次世代に継承されることを望んでいる。日本の伝説、昔話、神話を知らない日本人、とりわけ子供たちがいたとしたら寂しい限りである。大人になって日本人としてのアイデンティティが無いことに気づくはずだからである。そうならないように、子供には寝る前にでも、伝説、昔話、神話を物語って欲しい。

「‘科学の知’の有用性を現代人はよく知っている。それによって、便利で快適な生活を享受している。しかし、われわれは科学の知によって、この世のこと、自分のことすべてを理解できるわけではない。‘科学の知’は、その方向を歩めば歩むほど対象もそれ自身も細分化していって、対象と私たちとを有機的に結びつけるイメージ的な全体性が対象から失われ、したがって、対象への働きかけもいきおい部分的なものにならざるをえない。
‘神話の知’の基礎にあるものは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求である」((哲学者 中村雄二郎))
これが、合気道が求める神話の知であろうと考える。

「現代人は’神話の知’の獲得に大変な困難を感じており、このことが現代人の心の問題と関係しているのである。近代科学においては、観察者(研究者)は研究しようとする現象を自分から切り離して、客観的に観察し、そこに因果的な法則を見出そうとする。したがって、そこから見出された法則は、その個人とは関係のない普遍性をもつ。「科学の知」のもつ普遍性のために、それはどこでも誰でも利用できるものとなった。 しかし、その代償として、‘科学の知’’がつぎつぎと‘神話の知’’を破壊し、その喪失に伴う問題が多発するようになった。」

「各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていく必要があります。」(キャンベル)
 「言うなれば、各人は自分にふさわしい「個人神話」を見出さねばならないのである。 かって人類がもった数々の神話について知ることは、我々に多くのヒントを与えてくれる。そんな意味でも日本の神話を読むことは、われわれ日本人にとっては必要な事であるというべきだろう。」

これが神話の重要性と必要性を、深層心理学者の河井隼雄の『神話と日本人の心』(河井隼雄 岩波現代文庫)から抜粋・引用したものである。

神話とは、古事記であり、日本書紀であるが、合気道では古事記になるはずである。古事記を読み、古事記の教えに従って技をつかい、神話と合気道の結びつきを研究し、そして己の「個人神話を見出していきたいと思っている。