【第643回】 息づかいと高齢者

今年は暑い。8月半ばというのに、猛暑の日が続いている。
道場稽古も例年になく、汗だくになり、喉が渇き、息が上がる。
本部の道場稽古の稽古時間は1時間である。夏も秋も冬も一時間で一年中変わらない。稽古時間が一時間というのは年中変わらないわけだが、稽古をする人間にとっては、この一時間が長く感じたり、短く感じたりする。
その一時間を長く感じたり、どれだけ長く、また、短く感じるかは、三つの要因があると思う。一つは、己の体調である。体調が良ければ一時間の稽古はそれほど長くは感じないはずである。体調が悪ければ、その悪い程度に応じて、長いと感じるものである。二つ目は、稽古をする相対の相手である。力が強かったり、がむしゃらな稽古をする者や、また、技に通じた先輩などとやると、気づかれや体力の消耗などで、時間は長く感じるはずである。
三つ目は、季節陽気である。特に、今年のような猛暑での稽古は大変なので、時間は超長く感じるはずである。

実はもうひとつある。時間の長短の感じ方は、稽古の集中度にもよるし、この要因が時間の長短を決める最大のモノであるように思う。
これは、自身の経験によるものである。
入門して3,4年頃で、まだ学生で時間と体力はあった。技は上手く掛けられなかったが、馬力で相手を何とか倒そうと、力一杯で技を掛け、そして受けはほとんど跳び受身で頑張ることなく、少しも足を止めることなく、素直に跳んでいた。
しかし、流石に真夏の稽古はしんどいのか、何回か技を掛け、受けを取り、自分では少なくとも5分は経っているだろうと、受けを取って起き上がりながら道場の時計を見ると、一分も進んでいないのである。そこでこの時計は壊れていて動いていないのだろうと思ったものである。しかし、時計は壊れておらず、ちゃんと動いていたわけだが、一分も進んでいなかったことは、時計の針は、一秒ごとに進むのではなく、一分経たないと次の分に進まないものだったからである。こんなことが何回かあったわけであるが、一分間には相当な事ができるし、逆に言えば、物事を集中してやれば、時間を忘れるものだということが分かったのである。

年を取ってきて高齢になると、このように一時間中跳んだり跳ねたりし続ける稽古は出来ない。高齢者には高齢者の稽古法があると思う。
今現在、真夏で猛暑であるので、この猛暑に合う高齢者の稽古法を書いてみたいと思う。というのは、最近、数人の高齢者と稽古をしたが、大半が30分ほどで、息が上がってしまい、休むことになったからである。それほど厳しい稽古をしたわけではないので、その原因を考えてみると、その最大の問題は、息づかいにあるように見える。
息を吐いて、力を込めて、受けの私を倒そうとしたからである。だから暑さに加え、息が上がってしまったのである。イクムスビの息づかいをしないと、自分は疲れるし、相手は動いてくれないので息が上がることになるわけである。息のまずさは普段中々気が付かないものであるが、猛暑の夏にはそれが気づきやすいはすである。しかし、息づかいを変えるのは容易ではないことも事実であるから難しい。

高齢者は、特に、宇宙の法則に則った体づかい、息づかい、技づかいをしなければ、猛暑の稽古は難しいだろう。
とりわけ息づかいが大事であり、イクムスビの息づかいを身につけなければならないと考える。

もう一つの高齢者の稽古法である。特にこの猛暑での稽古法である。この稽古法とは、己が上達するための稽古法と己が満足できる稽古法という意味である。以前は、時間を超越するような密で激しい稽古をして上達し、満足してきたわけだが、高齢になればそれはできないから、上達し満足できるための高齢者の稽古法を考えなければならない。
それは3分間の集中稽古法である。一時間の内、これはと思うところで、3分間全身全霊、全力で稽古するのである。これなら、猛暑の中でもできるし、上達もできるだろうし、満足して稽古を終わることもできるはずである。

これは高齢者だけではないが、特に高齢者には大事な稽古法であると考える。
それは、季節によって稽古のやり方を変えることである。猛暑の夏の稽古は、体を激しく動かすのではなく、己の姿勢、態勢、動き、息づかい、技づかいなどを意識して、直すところは直し、間違っているところは排除や修正をしたり、また相手との接点で相手と結ぶ感覚を身につけたり、息や気によって相手と結んだり導いたり、相手との一体化を感じたりするのである。
逆に、冬などは、体をどんどん動かすことである。しっかり技を掛けるとともに、受けをしっかり取るといい。そして止まって考えるのではなく、その動きの中で、頭を使えばいい。頭や体からいろいろな教えがあるはずである。所謂、閃きというモノである。