【第640回】 一瞬一瞬を楽しむ

これまで「高齢者のための合気道」というテーマで論文を書き続けてきたが、高齢者の定義をしてこなかったというより、出来なかったのである。その理由は、自分自身が高齢者になったという自覚があまりなかったことで、高齢者とは何か、若者とどう違うかなどが不明確だったからである。
しかし、段々と年を取ってきたお蔭で、これが高齢者というものかということが分かってきたので、ここで高齢者のことを先ずまとめてみたいと思う。
この高齢者の定義は、己自身のことと、周りの高齢者から見えたものであるが、<高齢者病>の中にあるように思う。

まず、私が見る所謂<高齢者病>を挙げてみたい。
<過去に生きる>
若い頃に身に着いた合理主義や若い働き盛りの習慣の中で、更に生きようとすることである。例えば、早く、安く、無駄なくしようなどである。
また、若い頃のように、上下関係で人を見続けることである。例えば、俺は大会社の重役だったんだぞ・・・。つまり、過去の自分に生きるのである
<欲望の衰え>
服装に気を使わなくなる。段々と気楽な服装になり、最後は誰もが同じようなナッパ服になる。また、食べる事に気をつかわなくなり、食べる事を楽しまなくなる。そして食欲が減退する。
過去に生きることによって、向上心が減退することになる。
<身体の衰え>
肉体的退化が始まり、体重が減り、筋肉が減退し、腕も足も細くなる。また、体力、持久力が減退する。寝入りも悪くなり、何回か目が開き熟睡ができなくなる。それもあって、長い時間集中して物事がやれなくなる
<高齢者の癖>
高齢になってくると、少しでも楽にしたがるし、緊張することを避けるようになる。
また、他人や周りに関心が持てなくなる。自分の生きてきた道(生き方)を変えられないのである。

これが高齢者の定義であり、その主な部分を占める、<高齢者病>である。

さて、それでは高齢者はどのように生きていけばいいのかを考えてみたいと思う。今考えている<高齢者の生き方>である。

高齢者には、お迎えは近づいている。いつかはわからないが、いつ来てもいいように次のような心の準備をしてるべきだと考える:
○やるべき事 やりたい事やる
そのためにもやるべき事、やりたい事を自覚しておくことが重要である。己の使命が自覚出来たら最高である。
○一瞬一瞬を楽しむ
このためには、万有万物が宇宙楽園建設のために、生成化育していることを悟ることである 例えば、それを幼児や子供、蝶や草花に見るのも一瞬の楽しみである。熊谷守一画伯などは、蟻を半日じっと見つめて楽しんでいたという。これも長いが一瞬の楽しみである。
また、食事を楽しむことも大事である。食べ物のおいしさを楽しむ事である。また、食事の有難さと意義を再認識することである。食べるものも、人同様に宇宙楽園建設への生成化育にお役に立とうとして、そこにあるのである。食べ物と共に生成化育を果たそうではないかと、「いただきます」と誓って食べるわけである。そうすれば、食べたものは、食べた己に生成化育で働くために、その使命を果たすべく、血となりエネルギーとなって働いてくれ、体調を整え、そして体重の減退も押さえてくれることになるはずである。

一瞬一瞬を楽しむためには、生きている喜びを持たなければならない。人生はつまらないとか、生きている事が楽しくないということなら、一瞬も楽しめないはずである。まずは、生まれてきたことへの感謝と喜び、生きている事への喜びを自覚する事が必要である。多くの人は、自分は幸せではないと考えているようだが、考えようによっては幸せになれるはずである。

少しでも楽しんだ方が、楽しまないよりも得だろう。一瞬を楽しめないのは己自身でつくっているように見える、特に、高齢者は自分でその楽しむ機会を壊しているように見える。
例えば、電車から降りてホームを、人をかき分けて急いでいくのは、足元もおぼつかない高齢者が多いし、また、信号が緑に変わりきっていないのに、一番を目指して渡りはじめるのも高齢者が多い。これを周りから見ていると滑稽であるし、悲しくもある。先が短い高齢者が急いで歩いたり、横断歩道を渡ろうとしているわけだが、急いで歩いたり、渡る必要などないはずである。時間はたっぷりあるはずだし、急いで帰ってもやることがあるようにも思えないからである。ビジネスの世界で仕事や時間に追われている若者なら、大変だな、頑張れよと応援したいところだが、高齢者が急ぐのを見ると、死に急いでいるように見えてしまう。
それに引きかえ、近所で、高齢者たちが道のわきに咲く花を見て、花や蝶を語りながらゆっくりと歩いている姿は、時間を楽しんでいるようで微笑ましい。もし、急いで通り越してしまえば、花も蝶もみることなく、時間に間に合うかどうかだけしか頭にないわけだから、その時間は楽しめない事になる。
ゆっくりと歩くことを楽しむことはいい。ゆっくりと歩を進めると、頭が働き、体も働いてくれる。楽しいことが思いつくし、体の機能もよくなる。頭と体の両方が働いてくれるのは、ゆっくり歩くことのようだ。歩くことを、歩く一瞬を楽しむのがいい。

一瞬一瞬を楽しもうとすると、自分とまわりのすべての目に見えるモノが結んでくる。こちらから目がいくこともあるし、あちらから「こっちを見てくれ」と誘ってくることもある。姿が見えなくとも、鳥などはさえずりでその存在を知らせてくれる。鳥のさえずりはただ悪戯にさえずっているわけではないことも分かってくる。かならず雄と雌や集団との対話なのである。その対話で雄が雌に認めて貰おうと一生懸命に鳴くわけだが、上手くいったりいかなかったり、鳥も一生懸命に生きていて大変なのである。大先生は、悟りを開かれたとき、鳥の言葉もお分かりになったといわれるから、鳥の声を楽しんでいる内に鳥の声が分かるようになるかもしてないと思っている。

昔の人は、花鳥風月を愛で、歌や俳句をつくって楽しんでいた。物事をよく観察しただけではなく、花鳥風月と対話をしていたことになると思う。つまり、物事、花鳥風月を物理的に見たのではなく、心で見、心で対話をしたはずである。

一瞬一瞬を楽しめるようになるには、心で物事を見るようにならなければならないということになるのではないだろうか。合気道的に云えば、見えない世界、見えない次元の幽界を楽しむということになるのだろう。