【第64回】 技に残す

「人は自分をなにかの形で残したい」 ― これは人間の本能であろう。このことによって子孫が繁栄し、国が栄え、文化が発達してきたのだろう。子どもを生み、育てる、国のために尽くす、絵画や音楽を創造する、辞世の句を残すなどは、この本能に大いに関係するだろう。

演劇をしたり、スポーツや武道をすることは、ただ体を動かすためにやっているのではなく、自分を表現したいという気持と同時に、出来れば自分を形に残したいという気持ちの現れでもあるだろう。

人の命には限界があり、有限であるが、人は無限に生きることも出来る。人は見たもの、聞いたもの、触れた感触などをすべて無意識のうちに記憶するということだ。催眠術にかけた人に、例えば今見たばかりの周りの様子を話させると、通常なら気が付かないような小さなものや暗記しようとしても覚えきれないような文章をすらすら言うという。普段は思い出さないが、このように催眠術にかけて無意識を目覚めさせた時や、本当に必要なとき、あるいは死に瀕した場合など、記憶が無意識の世界から湧き出してくるようだ。

かつて若い頃、日射病でバターンと倒れ、意識が遠くなったとき、無意識の世界に隠れていたそれまでの自分のすべての記憶が高速フィルムで超速回転し始めた。女房の顔が現われ、女房の声が聞こえて、数十秒で気が付いたので、そのフィルムは途中で切れた。全部見たかったという気持ちもあるが、全部見たとしたら意識は戻らず、それでお終いだったろうから、途中で切れてよかったのだろう。いずれにしても自分のすべての見たもの、聞いたことの記憶はすべてフィルムに納められているということがよく分かった。

自分のやったことは、人が見る。そして、人はそれを自分のフィルムに記録する。いいことも悪いこともすべて記録される。人は誰でも評価されればうれしいものだ。また、自分のやったことが評価され"フィルム"に納めてもらえばうれしいだろう。

合気道では形(かた)を通して技を練っていくが、上手な人の技や動きには感動し、自分もそうなりたいと思い、頑張るものだ。開祖はその代表であるが、開祖以外にも多くの師範、先輩のものが、私や他の多くの人の"フィルム"に記録されているはずだ。

本人が意識するしないに関係なく、自分が動けば人に影響を与えることになる。どうせ影響を与えるなら、いいものを与えたいものだ。道場で稽古する時も、心すべきであろう。マイナスイメージになるような稽古、パワーの稽古、争いの稽古ではなく、できるだけ格調を高くするように努めるべきである。格調が高くなるためには、技に自分がそれまで生きてきた、また考えている哲学、人生観などが含まれなければならない。技は自分の表現である。自分を練っていけば、技も変わっていく。技が変われば、自分が変わったことにもなる。合気道で自分を残す形は、技であろう。技に自分が残るような稽古をしていきたいものである。