【第64回】 ひと稽古ひとつ

入門した当時は、誰でも張り切って稽古をしている。形(かた)を覚えたとか、受け身ができたとか、今度はあの形をできるように練習しようなどと、嬉々として稽古に励む。そしてどんどん体が動くようになり、体が変わっていき、合気の体ができてくる。

有段者になってくると、年齢も高くなってくるせいもあるのか、以前ほどの稽古に対する情熱が無くなりがちである。そして、稽古がマンネリ化してくる。理由は、入門当時や初心者のころのように、ただ稽古をしていれば上手くなると思いながら、道場に通っているからである。

確かに初心者のうちは、誰でも稽古をすればするほど上達する。しかし、有段者になると、それまでのようにただ稽古をしても上達はしない。勿論、稽古をしなければ上達はないが、稽古することは上達のための必要条件であるが、十分条件ではないということである。上達するように稽古しなければ上達はないということである。

初心者も勿論そうだが、有段者が上達するためには上達するような努力が必要である。努力にはいろいろあろうが、そのひとつに「ひと稽古ひとつ」がある。「ひと稽古ひとつ」とは、一回の稽古でなにか最低ひとつでも新しい発見をすることである。新しい発見とは、合気道の技に必要なファクターを見つけるとか、そのファクターが出来るようになったとか、新しい思想や考えを見つけたとかなどなどである。何かの発見は感動に繋がる。逆に言うと、新しい発見がなければ感動がないことになり、マンネリ化してしまうことにもなる。

「ひと稽古ひとつ」の発見があれば、週3回稽古するとすれば、一年で150以上、10年で1,500以上、30年で4,500以上の発見と感動があることになる。稽古しても何も発見しなければ、明日も発見はないし、1年後も10年後もないだろう。とすると1年後、10年後のレベルは今と変わらないことになってしまう。

「ひと稽古ひとつ」の稽古をしていけば、そのひとつひとつの発見の点がだんだんと線になり、面になり、球になり、そしてある時、突然にその技が自由に出来るようになる。

「ひと稽古ひとつ」は道場での稽古だけではなく、勿論、自主稽古でも同じである。木刀を振るにしても、毎回、必ずひとつは新しい発見をするように注意して振らなければ意味がない。道場に毎日通うことは諸事情から難しいが、自主稽古は毎日でもできるはずである。新しい発見を少しでも多くするためにも自主稽古はいい。ひとつの小さい発見でも、それは非常に大きな、否、無限に大きな、重要な発見ということができる。ある技が出来たとする、またあるファクターを見つけたとする。一見小さな発見のようだが、この発見が正しいものであれば、他のすべての技にも適用できるので、無限に大きな発見といえるだろう。

「ひと稽古ひとつ」、焦らず、地道に発見していこう。