【第636回】 着物を着て思うこと

親と女房が着物を用意してくれていたが、会社に勤めていた頃は、ほとんど着なかった。会社に行く必要もなくなり、時間と心に余裕が出来てきたせいか、着物を着たくなり、よく着物を着て出掛けるようになった。時候にあった着物や羽織や帯、襦袢や足袋、それに冬にはコートを着用するのは大変だと思っていたが、慣れれば洋服とあまり変わりない。
歩き方は、所謂、ナンバ歩法であるが、合気道の稽古での歩法なので問題はない。

着物を着て感じることは、股関節の重要性であり、己の股関節の柔軟性がまだ十分でないと気が付いたことである。着物は、洋服のように足で歩くのではなく、腰、つまり、股関節で歩くので、着物で歩くとその重要性に気づくのである。特に、階段の上り下りでは分かり易い。
最近、若者が着物を着て歩いているが、股関節でのナンバ歩きができないので、様にならないし、着物がずれ上がったり、はだけてしまう。

着物を着て出かけると、これまでの洋服の時と違って周りが見えるのが面白い。
まず、気持ちが違う。西洋文明を身につけて歩いている人から、西洋文明が見えてくる。洋服を着て歩いている人は忙しい。時間に追われているように、急いでいるようで、地に足が着いていないように歩いている。洋服を着ると、合理的、効率的に動こうとするようになるようだ。信号を青にならないのに進み出したり、赤に変わろうとしているのに渡ろうとしたり、込み合った舗道を、少しでも隙間があれば割り込んで突進する。
和服を着るとそんなに急ぐ気にならない。私の場合、年のせい、時間に余裕があるせいかも知れないが、着物のせいだと思っている。

洋服で歩いている人の歩き方はナンバ(常足)ではなく西洋式歩き方であるが、この歩き方は武道には不適であるし、肩が凝る歩き方だと思う。着地した足側の手を上げるわけだから、手だけでは上がっても、腰腹からでは上がらないので強力な力はでない。合気道でも着地している足側の手は上げて技はつかえないものである。やはり武道するならナンバでなければならないと再認識した。

また、着物を着ると、いかに日本が西洋文明に凌駕されているかがよく見える。着るものは洋服であり、歩き方も洋風の歩き方である。家も部屋も椅子もベットなども洋風で、畳や床の間などどんどん姿を消している。日本人が、合理的、効率的、そして競争に負けないように生き、物質文明に引き込まれていくのが見える。

お洒落な洋服を着た人を見ると、他人に負けないよう、他人よりいいモノを身につけようを思っているのがよく見える。そうゆう人が、着物を着ている人を見ると困惑する。質が違うので、比較できないからである。
勿論、着物同士では、同質なので比較し合うことになる。

これは洋服も同じだろうが、和服を着て、着るものに負けては意味がない。着物は着ている本人を引き立たせるものでなければ意味がない。だから、着物に負けない己をつくらなければならないことになる。着物との戦いである。いい着物を着たいならば、自分をそれに負けないように磨かなければならないということである。

着物一式を揃えるのは容易ではないが、少しずつ揃えていったり、また、今では中古品をネットなどで販売しているので、そう難しくないと思う。
できればひとりでも多くの人に着物を着て欲しいと思っている。日本文化が再認識できるし、世の中の問題点にも気がつくはずである。そして日本人としての己が見えてくるはずである。