【第626回】 姿勢を正す

合気道は真善美の探究である。美しくないものは、真でもないし、善でもない。合気道は技を錬磨して精進していくが、美も探究し続けなければならない。立ち姿、技を掛ける際、投げたり抑えたりした収めの姿、技を収めたり決めたりして相手と離れる際の動作など、どの動作の部分を切り取っても、美しくなければならない。特に、相手に対した時と投げたり抑え終わった後の姿は美しくなるようにしなければならない。何故ならば、初めと最後の動作は意識してできるはずであるからである。

美を探究しながら、美しくならないとか、不十分な美でも仕方がない。まだ、できないわけだが、少しづつ究極の美に近づいているはずである。問題なのは、合気道の稽古において、美を追求しようとしないことである。

合気道で技を美しく遣うということには深い意味がある。
一般的に美というのは、多すぎもせず、欠けるものもなく、無駄と欠如がないということだろう。それを合気道的に云えば、宇宙の営みに則り、宇宙の法則に則った動き、そして宇宙楽園建設を目指す宇宙の意志の生成化育に則っているということになると考える。

技をつかう際は、腰腹から手先、足先、頭のてっぺんまで気(宇宙生命力・宇宙エネルギー)を流し、弛んだり折れ曲がらないように、体をつかって相手に接し、体(腰腹)と手足を陰陽十字につかうことである。これらのどれかが乱れると美は崩れることになる。
息のつかい方も大事である。息づかいは、イクムスビや阿吽の呼吸である。息を上手く遣わなければ、体の動きが乱れるし、美しい技にならない。

一般に、技をつかう際には、自分の姿勢を注意しているものだが、受けの際の己の姿勢はあまり注意していないように思える。技を掛ける時だけでなく、受けでも姿勢、つまり美を追求しなければならない。
長年稽古をしてくると分かってくるが、己の姿勢を正すのは、技を掛ける時より、受け身の時の方が身に着くものが多いように思える。

受身を取る時の姿勢は乱れがちである。例えば、諸手取呼吸法の場合、相手の手をしっかり掴み、投げられないように頑張るのはいいが、腰を引いて相手の手が上がらないようにする者が多い。更に悪いのは、相手の正面に立ったり、顔を突き出して抑えに来ることである。自分では頑張っているつもりだろうが、技を掛ける方の片方の手は空いているから、顔面を叩かれてしまう。また、正面に立っていれば蹴とばされてしまう。そのことに気がついていないのである。このような姿勢は、危険と思わせるだけで、美しいとは言えないわけである。

美しい受けの姿勢とはどんなものかというと、まず、常に攻撃ができる姿であること。相対稽古での受けの役割、つまり、義務は相手への攻撃である。初めの正面打ちや片手取りだけでなく、技が収まる途中でも、隙があれば相手に攻撃を加える役なのである。
しかしあまり知らない相手に隙があるからと、実際に当身を入れたのでは合気道の稽古にならないから、当身の箇所に気で当身をすればいい。その攻撃によって、受けは相手に隙を見出すことになるし、また、技を掛けている方は、そこに隙があったことに気づき、以後注意することになるはずである。この受けと取りの緊張した攻防こそが美であり、第三者が見ても美しいものになるはずである。武術の達人が見ても納得できるような姿勢や態勢になれば美しいはずである。

次に、これは技を掛ける取りの側でも同じであるが、体全体に気を通した姿勢を保つことである。また、自分の体に気を通すだけでなく、相手の気と結び、相手と一体化すれば、美しいものになるはずである。

姿勢も美を追求しなければならない。真も善も見えないが、美は見える。見えるから正すこともできる。美であることは、真であり善である。
まずは、受けの姿勢を正すことに戻って稽古をするのがいいだろう。