【第626回】  稽古とは我を取り去っていくこと

「合気道は魂の学びである」と云われるから、己の稽古も魂を遣えるようにしたいと考えているところである。
しかしこれは中々手ごわい挑戦である。
今の世界は物質文明社会であり、モノの力がものをいう魄の世界である。魄の世界は相対的で他との比較、そして強弱の争いの世界である。
物質文明の世の中にある合気道においても、魄の稽古に陥りやすくなってしまい、相対稽古では、我を出すことになってしまうのである。

合気道は己との戦いである。己は何と戦うかと云うと「我」とである。これを無我への戦いという。無我とは空を行じるともいうという。
合気道の稽古における無我の戦いとは、技に集中すること。宇宙の営みに逆らっていないか、宇宙の法則に則っているかなどに集中するのである。この集中のために、体と息のつかい方に注意を払い、そして体と対話し、体からの批判や指示を受け、気の出し入れを感得するのである。つまり、自分の好き嫌いとか、やり易さとか、自分の良し悪しの判断ではなく、自分を一切入れ込まないで、それらの声に耳を傾け、その指示に従うということである。
そしてこれらに集中するに合わせ、他の事は忘れるのである。例えば、俺は強いんだぞ、上手いんだぞ等と思うとか、相手を投げてやろう決めてやろうとか、負けないで頑張るとか等々である。

それでは、どうして無我にならなければならないのか、ということになる。
まず、先述のように、相手や他人や他の事に意識や気持ちが行くと、当然、自分が疎かになり、自分の体や心との対話も出来なくなる。稽古は自分の体と心との対話であり、強いてはこれが宇宙との対話へと進むと考えるからである。

次に、無我になると大事なモノが入ってくる。我があるうちは、我が邪魔して大事なモノが入って来れないのである。
しかし、相対稽古では無我になるのは難しいだろうから、一人稽古で無我になる稽古をすればいいだろう。相手もいないし、いるのは己だけだから、無我になるのは容易になるはずである。毎日、同じことを繰り返す一人稽古をしていると、無我に成りやすい。そして、何か重要な事を教えられ、導かれる。毎回、少しずつであるが、必ず何かの教えや導きがある。
我を取り去っていく稽古をしていきたいものである。
勿論、道場の相対稽古でも、稽古以外の世俗の事は忘れ、そして我を取り去っていけば、いろいろ大事な教えを授けられるはずである。