【第615回】  判定基準

半世紀以上稽古をしていると、大先生をはじめ、吉祥丸先生、藤平先生、斉藤先生、山口先生、大澤先生、そして有川先生など、また先輩方なども、それまで教わっていた方々が昇天され、最早、教わることができなくなってしまった。
教わっていた当時は、教えて頂く有難さをそれほど感じていなかったが、今になると、教えて頂けた有難さが身に染み、有難い限りである。これは教わる先生や先輩が居られなくなってはじめてわかることだろう。

自分が先輩格になってしまうと、後は自己開発していく他なくなる。ある意味、これからが本当の修業であると思っている。
これまでのようにただ教わったことをやり、分からない事を聞けばいいということではなくなったから、自分で何をしなければならないのか、それをどうやればいいのか等自分で決めてやり、反省し、試行錯誤しながら稽古をしていかなければならなくなるからである。

自己開発するにあたって、何でも自己流に自由にやればいいということではない。自由だがそこには自由のための束縛、つまり枠がある。これが道をつくると考える。道にのっていなかったり、道に外れていれば外道ということになってしまう。

私の場合、有難いことに、二つのことが枠になっており、道を進んでいると思っている。
一つは、大先生のお話し、「合気道は魄ではなく、魂の学びである。敵を殲滅するのではなく、活かす。相手を倒すのではなく、相手が自ら倒れるようにする。合気道の修業は宇宙との一体化である。人はみんな使命を持っており、その使命を果たさなければならない等々」である。当時の大先生がお話になったことが、後述の『武産合気』『合気神髄』を読んでいると重なってくるのである。
二つ目の枠は、有川先生に教わったことである。例えば、力(呼吸力)をつけなければならない。技は諸手取呼吸法が出来る程度にしかできない。体は理合いでつくり、理合いでつかわなければならない。例えば、陰陽、十字である等。
勿論、他の先生や先輩からも多くのことを教えて頂き、それも体に残っている。

このように大筋は示して頂いたので、その道を進んで行けばいいわけだが、合気道は技を練って精進していくため、技を研究し、会得していかなければならない。
合気道の技は、細かいところや微妙なこと等は、人に教えることも、他人から学ぶこともできなかったので、自分で研究していかなければならない。自己開発あるのみなのである。
先生や先輩方の映像を見るのもいいが、やはり自分で相対稽古の相手に試して、会得していくのがいい。呼吸力をつけながら、理で体と技をつかっていくのである。

しかし、稽古をしていくと、それが正しいのかどうか、そして上達しているのかどうかが分からなくなることがある。
技は教えられないものである。見えないものは教えられないから、自ら感じ、実践してみるほかない。従って、教わらなかった事の正誤の判定が問題なのである。

その時は、まず、大先生と有川先生の教えに合っているのか、逆行していないかを確認することである。そして、更に綿密に、大先生が『武産合気』『合気神髄』で言われていることに合っているのかどうかを査証し、判断すればいい。
つまり、稽古の良し悪しの判定基準があるのである。だから、この聖典を何度も何度も読み込んでいかなければならないことになるだろう。

有難いことに指標、道しるべがあるのである。
従って、これからも、道を間違わないように修業を続けて行けると思っている。