【第615回】
意識と感覚と技
最近ようやく、合気道の修業は魂の学びでなければならないと確信し、これまでの腕力でない力、自分以外の力で技を遣かおうと四苦八苦している。
そして少しずつではあるが、そのような力があることは分かってきたし、確かに合気道は魂の学び、つまり魄が下になり、魂が上、表になる、つまり魄の世界を魂の世界にふりかえる稽古にならなければならないと思う。
しかしそうなるためには、実際どのような稽古をしなければならないのかを毎日試行錯誤しているところである。
そんな中、それに関係がありそうな一冊の本に出くわした。その本とは解剖学者の養老猛司教授書き下ろしの『遺言』である。この中に、人間の意識と感覚についての説明があり、これが合気道で求めている、力ではない力で相手が倒れる理由があるように見た。
今、ようやく、相対稽古の相手を浮かせ、魄の力でない力で相手を導き、そして相手が自ら倒れるようになってきたが、何故、そうなるのかがよく分からなかった。だから、それ以上先に進まないでいるわけであろう。その理由が科学的にわかれば、更に先に進めるはずである。
『遺言』にはいろいろ書いてあるわけだが、このテーマに関係あるものを幾つか抜き取り、技づかいでの関連で説明してみる。「 」の中が引用文である。
- 「感覚器は、外界からの刺激を受け取る。つまり外界の変化に依存して働く」:
感覚器とは、目、鼻、耳、舌、皮膚などであろう。これらの感覚器官は、光や匂いや音に反応する。そして皮膚も触覚などで反応するわけである。こちらと接している接点の皮膚で、相手は反応することになる。
- 「感覚はもともと外界の違いを指摘する機能である」:
相手や己の意識(心)に囚われていては、スキができて武道にならない。感覚を研ぎ澄ませて、外界の動きや状況を察知しなければならない。
- 「意識は多くの場合、感覚所与をただちに意味に変換してしまう。例えば、「焦げ臭い」から「火事じゃないの」等と。:
掴ませた手に気と力を入れると、その手を掴んでいる相手は、無意識にこれは大変だと力を込めたり、押したり引いたりする。これで相手は突っ張り浮き上がってくることになるようである。
尚、意識は心と置き換えてもいいだろう。しかしこの『遺言』では、「意識」の科学的定義はないと言っていることを付け加えておく。
- 「意識は基本的に主体性がない。自身の存在は完全にあなた任せ、身体任せである。ところがそのくせ、意識があると、その意識は自分がいちばん偉いと思っている。だから意識は、身体を動かすのは自分だ、と思っている。身体が勝手に動いたり、意識の命令に従わなかったりすると、意識は仰天する」:
相対での形稽古をしていると、意識で何とか相手を倒そう、決めようとするものである。特に、初心者にはその傾向が強い。意識にすれば何でもできると思っているのである。こちらが腕力でない力で相手を浮かしたり、誘導したりすると、勝手に動く体に仰天してしまい、意識でもどうにもならなくなる。
- 「金縛りという現象がある。この場合意識は戻っているが、運動系のはたらきが完全に戻っていない。意識のスイッチは入っているが、運動系のスイッチがまだ入っていない。」:
技を掛ける際に、運動系の筋肉や関節を起こさないようにすれば、相手を金縛り状態にして倒すことができることになる。押したり、引いたりしないで、開祖が言われる、天の浮橋に立って技をつかうという事であろう。
- 「意識とは秩序活動である。秩序の反対は無秩序、つまりランダムである。意識はランダムなことをすることができない。」:
だから、技を秩序だってつかうと相手の意識で阻害されてしまうことになる。秩序だったつかい方とは、例えば、直線的なつかい方であり、ランダムなつかい方とは、撞木、十字、陰陽などからの円や螺旋の動き等であろう。
魂の学びのために、「意識と感覚と技」について書いた。この『遺言』によって、魂の学びに弾みがつくことを期待している。
参考・引用文献 『遺言』養老猛司 新潮新書
Sasaki Aikido Institute © 2006-
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