【第614回】  美の追求

合気道は真善美を身につけることであると教わっている。合気道の修業を通して、体と心を至真、至善、至美にしていくということである。特に、技を錬磨することによって真善美を身につけていこうとするものである。
具体的には、己の技に真善美を植え付けていくわけである。技に宇宙の心に則した真が入るよう、宇宙楽園建設に則った善、時間空間を超越した宇宙的美を取り入れていくのである。

合気道の稽古で技に真善美を取り入れようとしても、中々難しいだろう。まず己の真善美の価値観や世界観がしっかりしていなければならないからである。また、真善美の定義や価値観は決まったものがなく、時代や地域や人によって違っており、決まっていないし、恐らくこれからも決まらないと思うからである。
この内特に、真と善は難しいと思う。合気道の稽古でも真善は見えにくいものである。しかし、美は目で見る事ができるし、自分なりに定義もできるようだから、技に取り入れていくことは可能だと思う。

美とは自然である。自然とは、合気道的に云えば、宇宙の営みと一致し、それに逆らわないものと云えるだろう。そしてそこには余って多すぎるものもなく、欠けて少なすぎることもないということになるだろう。
例えば、手も足も右左陰陽で交互に規則的に動き、十字による円の動きの巡り合わせと螺旋の動き、息と気の天地と交流による働き等であろう。

美を追求している稽古事は、合気道だけではない。その典型的なものが茶道であると思う。茶道には厳格な作法が決められており、我々門外漢にはとても覚えきれるものではないと見た。
私の義父は、茶室をつくり、沢山のお茶道具を揃え、よくお茶会を楽しんでおられた茶人であった。何回かお茶会をしてくれて、お茶席に出たが、いつも作法に面食らっていた。
しかし、よく考えてみると、お茶席の作法は、必要なものだけを残し、不必要なものを取り除いていった、非常に合理的なものであるとわかった。つまり、茶道は美を追求してきたし、茶人はやはりその美を追求しているわけである。
確かに、義父のお点前は芸術であったと云える。姿勢、体の左右陰陽のつかい方、お茶室が宇宙となり宇宙と共に楽しんでいる別次元の心・気持ち等であった。
義父は茶室の外でも常に美を追求していたと思う。例えば、義父は寒くとも決して手をコートのポケット入れないと言われていたし、実際ポケットに手を入れているのを見たことがなかったのを思い出す。

実用的な行為を美の世界にまで高めるというのは、日本文化の特徴なのだろうと、「茶の湯」(黛敏郎著 カッパブックス)に次のように書いてある。
「実用的な行為までも、合理的な過程を様式化することによって、一つの美の世界にまで高めようとする。日本文化には、このように日常生活を成立させていろいろのものを、たんに実用面からでなく、それを美的規範の中に取り入れようとする考え方が昔からあったと思われる。」
日本文化は美を追求する文化である。ましてや合気道は美を追求しなければならないはずである。

合気道は真善美の探究である。真善は見えないが、美は見える。己のレベルは美でわかるから、美をレベルアップすることが、合気道でのレベルアップになり、そして己自身のレベルアップになるはずである。
美しくないのはどこかおかしい。何か余分にあるか、欠けているか、その両方であるかである。
合気道は、本来、敵を殲滅する武道ではあったはずだが、ここに美の追求が加われば新しい武道となるはずである。