【第605回】 青春に生きろ

大先生はよく、50,60才はまだまだ鼻たれ小僧だといわれていた。当時はまだ20代だったので、世間も知らないし、自分も知らなかったので、そんなものだろうなと漠然とそう思っていた。
しかし、大先生がこれを言われたのは一度や二度ではなく、数回あったので、ちょっと不思議に思い、今その時の状況を思い出してみると、大先生に50,60才は鼻たれ小僧と言わせる、何か理由があったように思える。それは想像するに、大先生に対して50,60才の誰かが何か失礼な事を偉そうに言ったとか、合気道の稽古で偉そうに教えている先生に対しての戒めではなかったかと想像する。何故ならば、我々の稽古をしている道場に突然お見えになり、少し興奮気味に苛立って、ちょっと怒った調子で話されていたから、直前に何かあったのだと思うのである。

私は70後半になるが、まだまだ何も知らない鼻たれ小僧だと自覚している。よく自分を見てみると、何もわかっていないし、何も満足にできていないのが分かる。長年稽古をしている合気道にしても分からない事、出来ない事の方が多い。
ただ、少し大人になったといえることは、自分が分からない事、出来ない事があることが分かったこと、そしてまだまだ学ぶことがあることが分かったことである。そしてこれをスタート台として、鼻たれ小僧から大人へ進んでいかなければならないと思ったからである。

しかし大人になっていくのにも注意がいる。物事には必ず、長所と短所があり、人はやりやすい短所の方に進みがちになるからである。
鼻たれ小僧だって悪いばかりではない。鼻たれ小僧の時は、何も知らなかったし、金もなく、将来どうなるかも分からなかったが、体力と気力、そして夢と希望をもっていたし、持ちやすかった。
鼻たれ小僧を脱した大人だからと言って良いわけではない。70,80才の大人(高齢者)になると、経済的に安定するが、体力、気力や冒険心や挑戦心は衰え、肉体も精神も固まっていく。これでは鼻たれ小僧を脱したとしても面白くない。

鼻たれ小僧を脱しての理想的な高齢者は、鼻たれ小僧だった頃の長所をできるだけ取り入れ、保持していることだと考える。勿論、若い時の通りにはいかないが、それに少しでも近づけるようにするのである。とりわけ、体力の衰えは早いものだが、合気道によってある程度維持、事によっては若い頃以上になることもできるはずである。

体力という魄を鼻たれ小僧の頃のように維持するのは、難しいだろうが、心・精神を若い頃のように、いや、それよりも強く持つことは可能であるはずだ。何故ならば、それは魂であるからである。とりわけ、夢と希望は持ちたいものである。小さな夢、他人が聞いたら笑うような夢でもいいし、最終的(使命)な夢なら更にいい。そしてその夢が実現するという希望を持つことである。日常生活での夢、合気道の夢、そして、それが実現するという希望をもつことである。
これが高齢者が青春(鼻たれ小僧)を生きるということだろう。

朝日新聞の「語る 人生のおくりもの」に、建築家の安藤忠雄氏が、サントリーの佐治敬三さんから言われたという次の言葉を書いていた。
『青春を生きろ、70代、80代になっても、夢と希望があれば青春だ』
高齢者になっても、青春に行きたいものである。

参考文献 「語る 人生のおくりもの」朝日新聞