【第597回】 合気道だけではない
若い頃は自分が一番だと思ったり、自分のやっていることは最高だと考えたりするものである。己の短い人生、狭い活動範囲、少ない経験によるもので、これを若さとか、若気の至りというのだろう。
年を取ってくると、それなりに多くの経験を積み、世の中は広く、価値観も違い、人は違いもあるが、また、人はみな同じものを求めて生きていることなどが分かってくる。そして己が未熟でまだまだ小さく、更なる精進が必要であることを痛感するようになる。そして制限時間がその内近い内にやってくることを感じるようになる、時間との戦いになる。
このような心境になると、自分が求めている事、関心があることに敏感になる。そのような関係・関心のある本の新聞広告、テレビ放映、街や車内のポスター、人の話などなどに目や耳が敏感に働く。
先日テレビで民芸研究家「柳宗悦」(やなぎむねよし)(写真)の番組を見ていたら、彼の名言に興味を持ち、丁度、日本橋高島屋で開催しているという「民藝の日本 −柳宗悦と『手仕事の日本』を旅するー」を見に行って来た。
柳宗悦は思想家でもあるが、日本の民藝の素晴らしさを知らしむべく、民芸運動を起こし、全国から集めた民芸品の優品を展示する「日本民藝館」を東京・駒場に創設した。
合気道の修業に関係があり、興味を引かれた、柳宗悦の名言といわれるものを幾つか、展示会と彼の著作『民藝四〇年』で見つけたものを、コメントを加えて紹介する。
- 「過去のものといえども真に価値あるものは常に新しさを含んでいる」
<コメント>:一見古風な武道である合気道を稽古しているわけだが、最先端の技(宇宙の営み)を身につけ、最高の真善美の技を生み出していかなければならない。
- 「手が機械と異なる点は、それがいつも直接に心と繋がることであります」
<コメント>:漠然と形稽古をするのではなく、心と繋げた技をかけなければならない。
- 「特別な時に美を求めるより、平常の生活に美を即せしめることが何より大切です。この要求に応ずるものこそ民藝であるというのが私の答えなのです」
<コメント>:稽古の時だけ美を追求するのではなく、日常生活において稽古で培った美が出るようにすることが肝要である。
- 「実に多くの職人たちは、その名をとどめずこの世を去っていきます。
しかし彼らが親切にこしらえた品物の中に、彼らがこの世に活きていた意味が宿ります」
<コメント>:稽古人もいずれ世を去っていくが、稽古で培った技(宇宙の法則)が後進などに伝わり、残れば、稽古した意味がある。
- 「人間は一度教わるとその教わったことしかできなくなる」
<コメント>:合気道でもこの傾向にある。自分がしっかりすること、はっきりとした目標を持つこと、日々精進する気持ちを持つことによって、この問題から回避できる。
- 「単純を離れて正しき美はない」「素朴な器にこそ驚くべき美が宿る」
<コメント>:単純と必要なものはあるが余分なものがないということ。技も単純でなければ美しくないし、正しくない。
- 「民藝は必然手工芸である。神を除いて、手よりも驚くべき創造者があろうか」
<コメント>:合気道も技は手で掛けるが、手の成り立ちや働きは驚きであり、神がつくったというしかないだろう。
- 「自然に従うものが自然の愛を受ける。小さな自我を捨てる時、自然の大河に活きるのである」
<コメント>:合気道の技も自然に従わなければならない。自我を捨てることによって、宇宙の営みと一体化していけるようになる。
- 「手はただ動くのではなく、奥には心をしたがえている」
<コメント>:技はただ手をばたばたつかうのではなく、心で、心を込めてつかわなければならない。
- 「多くつくるのは早くつくる。だがその早さは熟達よりきたる早さである」
<コメント>:合気道の技でも勝速霊などといわれる速さは、まずはゆっくりと法則に従った体づかい、息づかいなどの稽古を重ね、それに熟達した賜物なのである。
- 「私(柳宗悦)がこの研究を選んだのではなく、この研究に偶々私が招かれたにすぎないのです」
<コメント>:人にはそれぞれやるべき使命があるということであろう。大先生は合気道、柳宗悦は民藝が使命であったのだろう。
- 「自然の中から湧き上がる作為なき製品に、真の美があり法則がある」
<コメント>:合気道の技も相手をやっつけようとか格好よく見せようとかの作為があれば美しくない。宇宙の営みからの自然な技にこそ真の美がある。
- 「作は無欲である。仕えるためであって名をなすためではない」
<コメント>:技を無欲でなければならない。宇宙生成化育につかえるために精進するものであって、名を上げたり、富を得るためのものではない。
- 「同じ形、同じ模様、果てしもないその反復、だがこの単調な仕事が、酬いとしてそれらの作をいや美しくする」
<コメント>:合気道はそれほど多くない形を果てしなく繰り返して稽古する。この単調な稽古が技を上達させ美しくする。
- 「信じる前に、知ろうとする意志を働かす者は、神に関する完き知恵を得る事は出来ぬ」
<コメント>:合気道の開祖である植芝盛平翁を信じず、翁の言われていることを信じないで、合気道を知ろうとしても何も得ることはできない。
- 「知識の闖入が目立つと、物を観る眼はどうしても濁ってくる。知識を持つことそれ自身は一向に差し支えないが、それの奴隷になると、物は見えなくなる」
<コメント>:合気道の修業は知識ではない。知識で技はつかえない。知識で技をつかっても違ったものになってしまう。己の心、宇宙の心(魂)の声で技をつかっていかなければならない。
- 「純に見ることを『直観』というが、直観はその文字が示す通り、見る目と見られる物との間に仲介場を置かず、じかに見る事、直ちに見る事であるが、この簡単なことがなかなか出来ぬ」
<コメント>:大先生の技や神楽舞、それに道話を直観出来なかったことが悔やまれる。直観は確かに難しい。晩年の有川定輝先生の示された技は直観しようと頑張ったお陰で、いろいろな事を教わったようだ。大先生も有川先生も言葉ではご説明されなかったので、見て学ぶしかなかったのである。これからも他分野からも多くの事を学んでいかなければならないので、例えば、お能、お仕舞い、相撲等々直観で見ていきたいと思う。
まだまだ沢山あるが、この辺にしておく。
合気道の修業と民藝及び民芸品の鑑賞には共通点があり、勉強になる。
合気道を精進するためにも、他分野の研究も必要な事がわかる。世の中には素晴らしい人がいるし、世の中を良くしようと頑張られた人がいること、いたことがわかってくる。まだまだ勉強々々。
Sasaki Aikido Institute © 2006-
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