【第593回】  手を手刀でつかう

形稽古で錬磨している技は手で掛けるので、手は大事である。手が大事であるという意味には二つある。一つは、肉体的、物質的な意味での手、二つ目は、機能的な意味での手である。

まず、肉体的な手として大事な事は、柔軟であり強固なこと。そのためには、必要な筋肉が付き、その筋肉が柔軟に伸び縮むこと。各関節が十字になる折れ曲がること等である。

次に手の機能、働きである。多少の力には屈しない。陰陽十字に機能する。腰腹の力が集まり、その力を使える、相手の手等にくっついてしまう引力のある等の機能のある手でなければならないと考える。

この肉体的な要素と機能的な要素を満たした手が刀の手、つまり手刀である。
手刀を見れば、己の手の出来が見えるし、他人のそれも知ることができるものだ。たとえ、稽古前の準備運動にしても、その人の手を手刀として見れば、手の出来、更に、体の出来、そして技のレベルも見えてくる。

ということは、手(肉体的・物質的及び機能的)の要素を満たすためには、手を手刀としてつかっていけばいいのではないかと考える。

手刀は手を刀としてつかうわけだから、手が刀にならなければならない。手の平は地に対して垂直で、親指側が峰、小指側が刃となる。手は刀のように真っすぐでなければならない。
但し、手は手首から先の手の平や指先の部位、手首から肘までの部位、肘から肩までの部位、肩から胸鎖関節までの部位の四つの部位に分かれる。
手が四つに分かれることによって、手刀が一本の刀にならず、手首や肘や肩の関節のところで、なまくら刀のように折れたり曲がったりしがちなのである。
従って、この四か所の手の部位を途切れないようにつなげて、一本の名刀としてつかう知恵を働かせなければならないのである。

手の各関節は十字に曲がるようにできている。これは通常の生活には必須である有難い機能であるが、武道では、この手を日常生活のようにつかっても、鈍刀のようになって役に立たない。
四つに分かれている部位を一本につなげるには、手を螺旋につかわなければならない。そして螺旋をつくるのは十字である。そして息づかいが大事である。

手刀は刀のように腰腹で振り上げ、振り落ろさなければならない。正中線を外さないよう、刃筋が通るようつかうのである。また、息に合わせて、陰陽、十字でつかうのである。
正面打ちや横面打ちは勿論、手を取るにしても掴ませるにしても、手を手刀としてつかわなければならない。従って、打ってくる手をはじめから掴んでしまうのは、手刀としてつかっていないことになるので不味いことになる。

手刀をつかっていると分かってくるが、四つの部位が手先から胸鎖関節まで繋がった一本の刀だけではない。手首から先の手先・指先の刀、肘から手先までの刀、肩から手先までの刀がある。二教裏や四方投げで、これらの手刀をつかうことができる。有川先生は、「言葉は悪いが、接近戦の時につかう」といわれていた。
但し、ここで大事な事は、動く支点(例えば、手首、肘、肩、胸鎖関節)以外の部位は折れたり曲がったりせずに真っすぐであることが重要である。

相手が打ってこようと、掴んで来ようと、出来る限り、己の手を手刀としてつかっていくといいだろう。