【第583回】  気持ちがいい稽古

若い頃は強い人、受けの相手をぽんぽん投げ飛ばす人に憧れたし、自分を投げ飛ばしてくれ、また、そのコツややり方を教えてくれる先輩や先生に感謝し、稽古の励みとしていた。
古い道場の頃は、大先生もご健在で、みんな無我夢中で技を掛け、受けを取って稽古をしていた。今のように稽古人もそれほど多くない事もあり、受けは所謂、とび受身で、後ろ受身では取りきれない早さのテンポで稽古をしていた。
最近は昔のような早いテンポの稽古を続けることはできないが、一時間の稽古の内2,3分は速度、力、精神力などを最大限集中した稽古をするようにしている。

相対稽古で技を掛け合う相手は原則的に毎回違うので、いろいろなタイプの相手と稽古をすることになる。以前はやりやすい相手とやる傾向にあったが、極力意識して、苦手な相手とやるようにしてきたため、最近では誰とでも、どんなタイプの相手でも十分稽古を楽しめるようになった。十分稽古を楽しめるとは、自分の課題が解決し、自分の稽古ができるということと、稽古相手も満足させることである。

いろいろな相手と稽古をすると、相手のことがわかってくる。体の出来上がり具合、強いところ、弱いところなどの体のこと、そして気が強い・弱い、センス、真面目さ等の精神面である。人はみんな違い、長短の表裏一体であることがわかってくる。

かっての若い頃は、相手が強かったり、上手いと、いい相手と稽古をしたと満足していたわけだが、今はそのような先輩と稽古をやることもなくなり、ほとんどは後輩や新人たちである。
しかしながら、有難い事には、いい相手と稽古したと満足することは多い。勿論、後輩の技量などで満足するのではない。5年や10年の技量では人を満足、納得できるまでの技量などにはなれないものである。

それでは何に満足するのか、いい稽古だったといい気持になれるのか。それは一生懸命に稽古をする姿と心にである。
一生懸命は誰にでもできることであるが、中々人はやらないものである。特にある程度長く稽古を続けていると、所謂、マンネリ化してしまうようである。

一生懸命に稽古をすることは、上手も下手もない。まだ下手な初心者であっても一生懸命に技を掛け、受け身を取ると、こちらも更に一生懸命にやらなければと思うようになるし、稽古が終わった後は本当に気持ちがいいし、初心者の相手に対して、頑張れよと心から応援する。

ときどき稽古を見学させてもらうが、見ていて気持ちがいい稽古は、相対の二人が脇目も振らず、一生懸命に技を掛け、受けを取り合っている稽古である。それは技が上手い下手や強い弱いとは関係ない。

何故、一生懸命にやることが素晴らしいのか、一番人を満足させ、説得力があるのか。
それは本当に一生懸命にやることは自分への挑戦であり、自分との戦いでもあるからだと考える。人は自分と戦っている人に魅せられるものである。何故、それに魅せられるかというと、合気道の教えによれば、それが宇宙の生成化育の姿であるからという事になろう。

逆に、稽古を見ていて余りいい気持にならないのは、相手に教えたり、駄目出しをしたりしている稽古である。それも大体は間違って教えているようである。他人に教えるより、まず自分がもっとしっかり稽古をしなければならないはずである。そのためには一生懸命に稽古に励むしかないはずである。
かって有川定輝先生は、稽古中に相手に教えようとしたり、話をすることを非常に嫌ったし、時として激怒された。
先生が下手上手関係なく、下手は下手なりに一生懸命に稽古をしなければならないと教えられていたことが、今になるとよくわかる。