【第573回】 摩訶不思議と感謝

合気道を修業しているとわかってくることがあるものの一つに、合気道の目標を追及していくためには繊細にならなければならないということである。
繊細になるものは、体と心の両方である。

体を繊細にすることは、合気道の技を錬磨しながらやっているわけだが、それを意識して稽古しなければ、体と体の部位は繊細に働いてくれない。それを意識するのは心であるから、心が繊細でなければならないことになる。心も技の稽古で繊細になるようにしていかなければならないことになる。

繊細な心で体を繊細に動かして技をつかうためには。息と気の媒体が必要になるから、やはり息も繊細につかわなければならないことになる。繊細な息づかいによって、繊細な心で体の各部位を繊細に働かせるのである。

稽古で繊細な心を持つためには、まず、人の体とその働きに摩訶不思議さを感じなければならないと思う。自分の手をじっと見れば、五本の指があり、各3つの関節がある。皮と肉と骨でできている。それらが真っすぐになったり、十字に折れたりして上手く働いてくれる。この皮膚や肉にしても、今の科学ではつくることはできないのである。誰が何のためにどのように創ったのか、見れば見るほど、また考えれば考えるほど摩訶不思議であろう。

摩訶不思議を感じるようになると、感謝の念が出てくる。例えば、指が五本揃っていること、また手がどこにも痛みのなく、思うように働いてくれることに感謝の念が湧いてくる。

体に感謝していくと、今度は体からいろいろ教えてくれるようになる。ここはこう動かした方がいいとか、息で気を満たさなければならないとか、ここは十字にしなければならない等々である。体が心に教えてくれるのである。
これもまた摩訶不思議であり、感謝感激である。

己が繊細になってくると、周りのものを身近に感じるようになるし、摩訶不思議さに感動するようになる。
木々や草花の生命力を感じるようになるし、彼らも一生懸命に生きようとしていることが分かる。共に宇宙完成のため生成化育している同朋であると思う。一緒に頑張ろうと対話をすることになる。同じように、お日様を見ても、お月様を見ても対話をし、感謝することになる。

このように摩訶不思議を感じるようになり、何にでも感謝するようになってきたのは年を取ったからだろう。
これは50,60歳ぐらいまでの若い内は難しく、高齢者にならなければできないのではないかと考える。もし、高齢者になるのを待たずにそのようなことが出来るようになるとしたら、それは宗教だろう。

合気道も考え方によっては、ある種の宗教ともいえるだろうから、稽古をしっかりすれば、若くしても摩訶不思議と感謝の繊細な心と体を会得することができることになる。若い人は合気道を信仰し繊細な心と体を持つように修業してほしい。