【第573回】  霊界と顕界をひとつにする天の浮橋

これまで「天の浮橋」については7回にわたって書いてきているが、今回も更に「天の浮橋」に挑戦してみることにする。
「天の浮橋」を書きたいと思った理由は、『武産合気』の次の文章が目に留まったからである。
「天之浮橋は、丁度魂魄の正しく整った上に立った姿です。これが十字の姿です。これを霊の世界と実在の世界の両方にも一つにならなければいけない。」(武産合気 P.98)
目に留まった箇所は、この文章の後半の部分「これを霊の世界と実在の世界の両方にも一つにならなければいけない。」である。

これまで相対稽古で技を掛ける際は、心(想念)と体を天に偏せず、地に執(つ)かず、天と地との真中に立ち、相手を押すのでもなく、引くのでもなく天上の雲にあるがごとく立って、相手と結んでしまうのが天の浮橋に立つということで稽古をしてきた。このためには天の浮橋に立って、イクムスビの息づかいで、イーと息を吐いた際に相手に接し、相手と結ぶことになる。
確かに、天の浮橋に立たなければ相手と結ばず、技は効かないということがわかる。

さて、今回はこれまでの天の浮橋に新しい要素が入るのである。それは霊の世界と実在の世界の両方を一つにするということである。つまり、実在の世界だけで技を掛けても駄目だというわけである。

実在の世界とは顕界であり、人が生きている現実の世界である。物質の世界、競争世界、力優先の世界である。
日常生活の顕界を道場まで引きづって、顕界だけの技をつかう、稽古をしても駄目だということなのである。

しかし、開祖は力や物質の魄を否定はしておられない。力はあればあるほどいいし、物質もあってもいい。大事な事はそれで独走しない事であり、そのためにその対象物でバランスを取る事である。
このバランスが取れるためには、力や物質の魄の世界である見える世界の顕界に対照する見えない世界の幽界のモノが必要になる。それは心、精神、気持ち、魂である。

技をつかう際、力一杯、体(魄)も十分つかってやるが、それに見合う、または上回る心、精神、気持ち(魂)をつかわなければならないということになる。魄と魂が一つになるのである。
これが霊の世界と実在の世界の両方が一つになった天の浮橋と考える。

開祖は、天の浮橋に立つと、魂に宇宙の精妙を悉く吸収し、天の浮橋の十字の交流によって言霊が響き、魂のひれぶりとなり、合気道においては、念彼観音力であり、そして技を生み出すといわれているのである。
天の浮橋も奥が深い。更なる研究が必要なようだ。