【第566回】 孤独を楽しむ

最近、どこでも携帯電話が氾濫している。電車の中でもほとんどの乗客は携帯を見たり聞いたりしてるし、街を歩いていても携帯で話しながら歩いているのを沢山見かける。また、トイレに入って用を足しながら、器用に携帯を操作したり、話をしているのも見てびっくりしたり笑わせられる。
携帯は持っているが、公衆電話のかわりに使っている程度の私からみれば、これは慢性携帯病のように見える。彼らから携帯電話(勿論、スマホも含む)を取り上げたら、きっと半狂乱になるか、精神不安定にあるだろう。

それだけ携帯電話は普及しているということだろうと、どれだけ普及しているのかを調べてみると、直近の国勢調査(2015年)における日本の総人口1億2711万0000人に対して携帯電話契約数は1億9569万件と人口の154.0%であるという。日本人の老若男女を問わず一人1.5台の携帯を所有していることになる。人口よりも多い携帯電話があるわけだから、世の中に氾濫するわけである。

「社会学者ジグムント・バウマン(1925−2017)(写真)は携帯電子機器を持つことで人は『孤独という機会』を捨てると書いていた。孤独こそは、考えを整理したり煮詰めたり、反省したり想像したりするよすがなのだと訴えた。」(朝日新聞 1月18日)

世の中、携帯電話でみるように、「人は孤独という機会」を捨てている。無意識に捨てているようだが、それは無意識に孤独から逃避したいと思っているように思える。携帯で話したり、スマホでなんでもつながっていて、いつでも必要な情報が取れるから孤独ではないと思うのであろう。
さらに、極端に言えば、孤独にならないために、携帯電話をいじっているようにも見える。

自分の知りたいことはスマホで簡単に調べるが、みんなもそれを見るわけだから、結果はみな同じとなる。インターネットの情報を共有することになるし、それを共有することで、他人ともつながり安心しているようにも見える。

自分のものがなく、個性がなく、オリジナルがないのである。みんな一緒でないと不安で自信が持てないのであろう。
フランスではオリジナルを最重視する。オリジナルな考え、行動、人間が評価されるので、オリジナルがなく、個性もなければ相手にしてもらえない。

自分をつくり上げていき、個性やオリジナリティが出るようになるには、自分を見つめ、考えを深めていかなければならない。そのためには孤独が必要なのである。

合気道でも上達するには孤独にならなければならない。武道は孤独であるといわれる所以である。他人とわいわいがやがやと稽古をしているようでは深い稽古はできないし、身に着くものも身に着かない。
道場は別世界であり、孤独になりやすいし、ならなければならない世界である。俗世界のこと、周りのことなど忘れ、自分を見つめ、技を深め、道を究めるべく別次元で孤独の機会を楽しむのである。