【第565回】  見えないモノを見る

合気道は技の錬磨で精進し、その目標は宇宙との一体化である。宇宙の営みである技を、宇宙の法則に則って身に着けながら己を宇宙にしていくのである。
しかし広大な宇宙の営みを会得していくのは容易ではない。
容易でない理由に、各段階で先に進むための登竜門があり、それをなかなか乗り越えていけない事である。また、合気道は禅的なパラドックスにある、などいろいろあるが、最大の原因を、見えないモノを見ようとしないことだと考えている。

合気道でもまずは体をつくり、腕力、体力を養成しなければならない。合気道には力が要らない等という迷信を信じないで、少しでも力が付くよう稽古をしなければならない。
問題はこの段階から次の段階への登竜門があり、そこを通らなければならないことである。

ここでの最大の問題は、次の段階への登竜門が控えていること、その先に更なる合気の道があることに気が付かないことである。また、それに気がついても、どのようにしたらその登竜門を通過できるかがわからないことである。

この最初の登竜門を通過できないのには、理由がある。
それはそれまでの体力、腕力をつける稽古が力の稽古、つまり魄の稽古であったわけだが、その魄の稽古から抜けるのが難しいからである。
それでは魄の稽古から抜け出すにはどうすればいいかというと、「見えないモノを見る」稽古、そしてその生活をすることだと考える。見えるモノ「魄」から見えないモノ「魂」の稽古、生活をするのである。

合気道を始めると、形を覚え、目に頼り、受けの相手を倒したり抑えて満足する稽古をしていくわけで、目に見える世界、顕界、魄の世界で稽古しているわけである。これは時として争うことにもなるが、必要な稽古である。
だが合気道の真の稽古は見えない世界、幽界・神界、魂の世界の稽古をしていくものである。

そのためには、見えないモノを見る稽古に入らなければならない。具体的にどうすればいいのかというと、例えば、稽古相手と向き合って見る見えないモノとは「心」である。相手の心を感じ、その心を導くのである。それには相手と体(接点)で結び、体と動き(技)を法則(宇宙の心)に則ってつかい、相手の心を導くのである。

日常生活でも、外見ではなく「心」を観るのである。人の心だけではなく、花や草木、動物、太陽や月、山や川や海などの心を観るようにするのである。心を観ればお互いが結ばれ、コミュニケーションが生まれることになる。日の出や草花や木々、それにまた幼児を見ると、笑顔になったり、感激したりするのは、その心を観たからである。
外見で人でもモノでも見ると、本当の姿が見えないし、心が分からず正しい判断ができず、正しい対処もできないことになる。だから、争いも起こることになるわけである。

心で観ることである。絵画でも、詩でも、文学でも形など実際に見えるモノよりも、心などの見えないモノが評価されているはずである。ピカソの絵や北斎の絵、童話や童謡などを思い浮かべればいい。見える形よりも見えない心の方が説得力という力も勝っているわけである。

物事の心を心で観ると、物事に上下がないことがわかる。子供と大人を外見で見れば、大人は大きくて強くて、子供よりなんでもできるように見えるが、目で見えない心でみると、その自然で純粋な心は決して大人に負けるどころか、大人を凌ぐものがある。心に大人も子供の優劣はない。

道場稽古でも、外見はみな違って、体格のいい人、背の高い人、腕の長い人、強そうな人、そうでない人がいるが、「心」で見れば、強いも弱いもなくなり、上下がない。
「見た目じゃない 生きる命に 上下なし」(築地本願寺設計者 伊東忠太)

見えないモノは心だけではない。宇宙には見えないモノが無限にあるのだろう。稽古では、見えないモノを見つけていかなければならないと考える。