【第564回】  単独稽古

合気道は通常、相対で技を掛け合う形稽古で精進している。相手に技を掛け、そして受けを取り、体をつくり、体づかいを覚え、技を身に着けていくのである。従って、初心者の内は一緒に稽古をしてくれる相手が必要なので、道場に通わなければならないわけである。

稽古を40年、50年と続けてくると、大分技が身についてくるし、呼吸力も出てくるようになるので、稽古相手にはあまり関係なく相対稽古ができるようになってくる。勿論、稽古相手を選んで稽古することもある。それは稽古の目標に相応しい相手と稽古をするためである。例えば、己の呼吸力を確認したり、増幅するため力のある相手を選んでやったりすることである。

誰とでも稽古ができるとは、法則に則った技がつかえるようになってくるということである。ある程度の力がつき、手足を陰陽につかったり、十字につかっていけば、技をつかった結果は同じとなるからである。
勿論、掛けた技の効き具合は力の質と量、そして技の質による。だから、技を掛けた相手の反応によって、己の技と力の程度を感じることが大事である。初心者は相手が倒れればいいと思ったり、倒すことを目的にしてしまうから、学ぶべきことを学ばないことになり、先に進めなくなるのである。

長年稽古をしてくると、己の相対稽古に壁ができてくる。稽古をする仲間たちが古い稽古人を意識し始め、一緒に稽古をすることを敬遠するようになるのである。これは私だけでなく、先輩たちも同じであった。かって古い先輩が、稽古中、だれも寄り付かないので、稽古時間中正座して稽古を見ておられたのを思い出す。

合気道の相対稽古は素晴らしい稽古法であることに間違いないが、やはり、負の面もあるわけである。
しかし、合気家はその負の面も克服して稽古に精進していかなければならない。
大先生は最後まで修業されていたわけだが、相対稽古だけで精進されていたわけではない。それを見習わせて貰えばいいだろう。

相対稽古に続く次の段階の稽古法には、主に二つがあるだろう。
一つは、イメージトレーニングである。技(形)の初めから終わりまで、体の動き(軌跡)を、息づかいと共にイメージするのである。大先生は、技を掛ける前に、相手が倒れる姿が見えたと言われていたのは、この事と関係があるのだろう。
これをすべての技(形)でやるのである。道場でも、道場以外のどこでも、そしていつでもできる。道場稽古は1,2時間だが、このイメージトレーニングはいくらでもできるわけだから、ある意味では、道場の相対稽古より上達できる可能性を秘めているはずである。

二つ目は、単独での技稽古である。相対でやる一教や四方投げや入身投げなどを単独でやるのである。
相手に掴まれたり、抑えられないので、相対よりも容易に動けるはずだが、実際にやってみると難しいものである。どんなに受け身がうまくなった初心者でも単独ではできないはずである。

何故、単独動作ができないのかというと、まだ法則に則った技がつかえないからである。つまり、体が法則に則ってつかわれないのである。例えば、足が右、左、右・・と規則的に陰陽でつかわれないのである。
単独動作では、それがよくわかる。右左の順序を間違えれば体は動かなくなり、技にはならないのである。

単独動作ができるためには、手、足、腰などの体が陰陽、十字に、それも息に合わせてつかわれなければならないのである。
従って、単独動作ができるためには、その前段階の相対稽古で、誰とでも稽古ができるようになっていなければならないのである。

単独稽古の段階に入ってくると、前回「剣や杖を持たない無手の剣・杖の稽古」に書いた、剣や杖を持たない無手の剣・杖の動きが活きてくるし、また、この単独動作に無手の剣・杖の動きを加えることによって、単独動作が活きるだけでなく、相対稽古においても、技が活きてくる。

相対稽古重視の時期では、相手を意識した相対的な稽古になるが、単独稽古の時期に入ると、その動作がいいのかどうかを知ることが大事になり、己主体の絶対的な稽古になっていくということができよう。