【第560回】 自由とは

人は少しでも自由になりたい、自由に生きたいと願っている。自分を縛っている束縛から逃れたいと思っている。
特に年を取ってくると、若い頃には難しかった、自由に生きたいと思うようになるはずである。

自由に生きたい、自由にやりたいとは、束縛から解放されることだろう。しかし、人間社会で生きていくからには、その社会が機能するためにも、ある程度の束縛は必要になるわけだから、束縛はある。例えば、憲法、法律、学校制度、経済システム、会社等である。

従って、完全に自由に生きることは難しいし、ほぼ不可能といっていいだろう。
もし、本当に自由に生きたいのなら、山に籠るか、無人島で一人で生きるほかない。
さて、自由を阻むものは、まず大きく云えば、経済と社会システムということになろう。
これは外部的要因である。この外部的要因の束縛は、高齢になり仕事や会社から引退すれば無くなっていくし、あってもそれはそれまでのような負の束縛ではなくプラスの束縛として働いてくれることになる。例えば、年金である。

次に自由を阻むものは内部的要因である。一つは己の能力と性からの束縛である。例えば、自由になるための勇気がない、自信がない等である。更に、後で書く己の土台、支点などがないか、しっかりしてないことである。

仕事を止め、年金と貯蓄で生きられるようになれば、前出しの経済と社会システムの外部要因からの束縛はなくなるので、誰でも初めは自由に生きられるようになると思い、歓喜するはずである。
しかし、現実にはそれも半年ぐらいなもので、その後徐々にその自由であるべき生き方は萎れていくようである。

真の自由を求める、享受するためには、合気道の教えから、自由が機能するための支点がなければならないはずである。物事は陰陽合わさって完全になるし、支点があって動くことができるのである。
そしてその支点がしっかりしていればいるほど、自由に機能するということは、自由に生きることができることになるはずなのである。

その支点は、生きる上での土台であり柱である。また、価値観とも絶対とも云えるだろう。合気道では、この支点を「使命」としている。使命は天から万人に与えられているから、誰もが使命をもっていることになる。
人はこのゆるぎない、堅固な使命を持つようになれば、他の事に囚われなくなり、失敗しようが、損しようが気にならなくなるので、何も心配したり、恐れることもなくなり、己の心のままに素直に生きられるようになるはずである。

心のままに生きることになれば、それが真の自由ということだろう。
しかし、そのためには若い頃の不自由な過程でも、己を鍛えながら、ゆるぎない土台をつくっていかなければならない。合気道では、自由な技をつかうためには、まずはしっかりした形を身に着けなければならないと教えているのである。
土台がしっかりすればするほど、合気道でも生きる上でも自由になれるものと思う。