【第560回】  山彦の道へ

一つの事柄がわかってくると、他の事もどんどんわかってくることがある。
例えば、「合気」である。この「合気」がわかってきたことにより、これまでわからなかったり、不明確だった事柄が明瞭になってきた。

これを「極意」というのだろう。「極意」を辞書で見てみると、「極意とは、学問や技芸で、核心となる事柄、奥義ともいう」とある。
「合気」は合気道において、極意、奥義ということになるのだろう。

「合気」がわかってきたことによって、「山彦の道」がわかってきた。これまでも「山彦の道」を何度か挑戦したが、正直よくわからなかった。
前回「合気とは何か」で書いたように、「合気」とは、自己の響きと宇宙の響きが同調するということであることがわかった。
そして、己の五体の響きと宇宙の響きと同調・交流し合うことによって合気の気・響きが生じるのである。

この己の五体の響きと宇宙の響きがこだますることを「山彦の道」といい、これが合気道の妙諦であると、開祖は次のようにいわれているのである。「五体の<響き>は心身の統一をまず発兆の土台とし、発兆したるのちには宇宙の<響き>と同調し、相互に照応・交流しあうところから合気の《気》が生じる。すなはち、五体の<響き>が宇宙の<響き>とこだまする<山彦>の道こそ合気道の妙諦にほかならぬ。」
これで「山彦の道」の目鼻がついただろう。

「山彦の道」をこのように解釈して、開祖の難解だった道歌を詠んでみると、前よりずっとわかりやすくなる。

これらの山彦の道は、宇宙への広大な道の山彦であるが、小さな山彦の道もある。
道場での相対稽古で、稽古相手とも山彦の道をいかなければならないはずである。これができずに、また、無視して、宇宙との山彦の道へは進めないだろう。開祖は、「心と心が振動し共鳴し合う世界が山彦の道の発現たる世界である」とも云われているわけだから、稽古相手とも、心と心が振動し共鳴し合う山彦の道の稽古しなければならないことになろう。

開祖は、「この山彦の道がわかれば合気は卒業であります。」と云われているから、この山彦の道をしっかり身に着けなければならない。さもないと、合気は卒業できないことになる。