【第559回】  気でやる、気で技を掛ける

私は大先生の晩年に合気道の門を叩いたわけだが、当時の合気道はまだ柔術的な匂いがしており、みんなが相手にやられないよう、負けないように力一杯の稽古をしていた。そのためか、先輩たちは力もあり、技も強烈だった。
われわれ初心者は先輩たちにやられないように、休み時間はもちろん、次の時間も力一杯稽古していた。

大先生は、われわれの稽古を、お手洗いの帰りなどでご覧になると、時々、道場に入ってこられ、ニコニコしながら、そんなに力をつかわなくてもできるんだと、技を二、三示して下さったものだ。
しかし、われわれがその言葉通り、力を抜いた稽古をしているのをご覧になると、「そんな力を抜いた稽古をするな」と、烈火のごとく叱られたのである。
当時はこの矛盾を理解できなかったが、今それを解釈してみると、まずは力一杯やらなければならないが、それを過ぎれば、今度は力に頼らなくともいい稽古ができるようにしなさいということだったのだろう。

力以外に何かあるのだろうとは思ったが、当時は全然わからなかったので、力と体力による稽古を続けるほかなかった。
当時の先輩の中には、休み時間の自由時間で、われわれ若い者たちの稽古を見て、気でやれ、気で技を掛けろといわれていた。それで気というのがポイントであろうとは思ったが、気とはどういうものなのか、どのように技につかうのかは分からないし、先輩も教えてくれなかった。只、藤平光一先生が、気を説明され、それを技でも示されたが、それは藤平先生が強いからで、それが気であるとは信じられなかった。

合気道をはじめて半世紀以上たつ。お陰でいろいろなことがわかってきた。が、まだまだ知らなければならないこと、会得したいものがあることもわかってくる。その一つが「気」である。そろそろ己の先も見えてきたので、何とか「気」を理解し、技につかえるようにしたいと思っている。少なくとも、少しでもそれに近づきたいものである。

合気道は、相対で技を練って精進していくわけだが、技はなかなか相手に上手く掛からないものである。そこで上達するためにはどうすればいいのかを、この『上達の秘訣』で書いているのである。
これまでの技が上手く掛かるための秘訣をまとめてみると、先ず、手主体で掛けていたのを、足主体で掛けるといいと書いた。
次に、息で技を掛けると云いと書いた。

しかし、息で技を掛けるのにも限界があることが分かってくるのである。『合気道の体をつくる』第556回「体、息、気」で、次のように書いた。
「しかし、これも稽古をしていくとわかってくるのだが、体と同様、息もひっかかり、つまってしまうのである。例えば、片手取り呼吸法で、相手にしっかり持たせた手をつかう際、息でその手を動かそうとしても、相手の力にぶつかってしまい、手も体も止まってしまうのである。体そして息が相手とぶつかっているわけである。息にだけ頼ってもいられないのである。」

そして次の段階に入るのである。上記の論文で、「息がスムースに出るためには、気を流し、それに息をのせるのである。具体的には、アウンの呼吸である。アと口中を拡げると、先ず、口中から気が出て、それが頭上、頭・顔からそとに四方八方流れていく。その気に息をのせていくのである。後はウンで気を腹に集め、そして息を収めればいい。」
そして最後に、「合気道で『気』でやるとは、このことではないかと思う」と書いた。

この事からも、また、実際に技をつかう上でも、息と気は違うことがわかる。息によっても気は出るが、気によって息は導かれる。気に導かれなければ、気はつまってしまう。
つまり、体を導くのは息であり、そして息を導くのは気である。
即ち、体と息でやる技は、気でやるということになるわけである。これが技は気でやれ、気で掛けろということだと考える。

気とは、宇宙生命力、宇宙エネルギーである。つまり、己の本来のエネルギー以外の外部のエネルギー、外部の力である。人の微々たる、有限の力の比ではなく、この力が十分につかえるようになれば、己の力に頼ることも必要なくなり、大先生が言われていた、力に頼らないで技を掛けることができるようになるわけである。

それでは気はどのようにして出てくるのかということになるが、論文の分量も多くなってきたので次回にまわすことにする。