【第558回】 感動を求めて

年を取ってくると、考えること、感じること等が若い頃と違ってくる。
その大きな違いを、合気道的に簡単に言ってみれば、物質主義と精神主義、顕界と幽界、見えるモノと見えないモノ、相対的と絶対的、後で主義と今主義等といえる。
若い頃は、いい仕事につき、豊かな生活をすることに精力をつぎ込み、それが得られれば喜んでいた。稽古でも相手を倒して満足していたし、稽古相手に息を上がらせて喜んでいた。若い頃は、モノに頼った物質主義であり、見えるものに価値を置き、見えるモノしか信じない、相手と比較して右往左往していたといえよう。
年を取ってくると、若い頃とは真逆な生き方をしたくなるようだ。

年を取って来ると、それまでの社会生活からどんどん離れ、少しづつ自分一人になっていくように感じる。家族や友人、知人もいるだろうが、それでも孤独の方向に向かっているはずである。
更に、死ということを意識せざるを得なくなる。いずれ近い内にお迎えが来るということを少しずつだが、確信していく。
食欲もどんどん衰えていくし、どこかに行きたい、何かをしたいという気持ちも減退していく。
従って、後期高齢者がただ、生きて行こうとしても、若い時と同じように、毎日、楽しく生きることは難しくなってくる。

後期高齢者が若い時のように、楽しく日々を過ごせるためには、感動を得ることが必要でないかと思う。感動には楽しい嬉しいものもあるが、涙を流すような悲しい感動でもいいだろう。そもそも片方だけの感動などない。楽しい感動をする人は、悲しいものの感動もそれ相応にするものである。
雨上がりの草花、紅葉と青空、夜空の満月、幼い子供たちの笑顔や動作、人の話や文章、人の努力、美味しい料理など、また、小説を読んだり、映画を見て涙を流すなど、喜びであれ悲しみであれ、感激、感動するものはいくらでもある。

さて、自分の事を考えてみることにする。私は、年とともに上記の事も感動するようになってきたが、私が最も感動するのは、言うならば、自分自身に対しての感動といえるだろう。
具体的に云えば、一番の感動、別の言葉で云えば、一番うれしいと思うことの一つは、新たな発見であり、挑戦に打ちかつことである。例えば、自分が、合気道の一つのテーマの論文を書き上げたときである。正確に云えば、書き上げた瞬間である。ということは、二度目にそれを見ても、最早、その感動も喜びも減退しており、一日経ったら、感動も興味もなくなってしまうのである。

日常生活でも、今やりたい事、やるべきと思う事をやることが大事になる。若い頃のように後回しには出来ない。感動が違うし、そもそもそのやりたい事や、やるべき事も時間が経てば消え失せてしまうからである。
合気道の稽古でも、今思っているやるべき事をやるようにしているが、その問題が解決した時の感動は、大きいものである。

論文にもどるが、頭に浮かんでくる論文テーマを書いて、毎回、発表しているわけだが、浮かび上がったテーマが面白いと思うのは、その時だけで、一日でも経ってしまうと、面白いとは思わず、最早、感動は消失しているのである。そして次のテーマにそれは移行しているのである。
感動を呼び起こす興味はどんどん変わっているわけである。だから、興味のあるうちに書いて置かなければ、そのテーマは忘却の彼方へ行ってしまうことになるから、書き留めておかなければならないのである。

面白いことに、興味のあることをやり続けていると、更に新しい興味がどんどん湧いてくる。それも興味は横に拡がるだけではなく、縦に深まってもいくのである。そして、若い時には見えなかったモノが、年とともに見えてくるのである。
これが面白い。高齢者の特権である。