【第554回】  合気道は形はない

「合気道は形はない」と教わっている。大先生よりよくお聞きしていたので、耳に残っている。当時はどんな意味などか、分からなかったし、解ろうともしなかったが、最近、この言葉が気になってきたので、研究することにする。

合気道は相対で形稽古を通して上達していくわけだから、合気道は形はないといわれても困ってしまう。
稽古人の中には、合気道は形はないということを、何をどうやってもいいとばかり、形をくずしたり、奇抜なことをやってもいいと解釈している人もいる。

しかし、形は大事であることに間違いはない。基本技といわれるような形、例えば、一教や四方投げや入身投げの形がきちんと、しっかりできなければ、合気道は決して上達できないことは間違いないからである。

また、合気道の形は、稽古を積むことで、宇宙の法則に則った技で埋まっていき、技で構成されることになる。十字や陰陽などが形に入っていくのである。形の稽古を通して、技を練り、宇宙の営みを見つけ、技に取り入れ、そして会得し、身に着けていくのである。
従って、技で満たされた形を追及しているわけだが、それでも、合気道は形はないというのである。

それでは、合気道は形はなければ、形以外何なのか、何を求めていけばいいのかということになる。

形はない、形ではないというもの、つまり、形を追及しないものは合気道の他にもある。
例えば、その典型的なものは、絵画であり、書であろう。名人、達人の絵画や書は、形ではない。きれいに、正確に掻いた形が素晴らしいと評価されるのではなく、形を基にした他のものである。形がよくわからなくても非常な評価を受けるピカソの絵とか、棟方志功の版画、また、大先生の書も形だけではない、何かがあるはずである。

「形はない」ということは、形はあることであり、形は大事であるという事である。絵画にしても書にしても、また、合気道でも、習い事は、まず形から入っていく。形を覚えることがまず初めは大事なのである。
しかし、この「形はない」ということは、この「形」に留まる、つまり、「形」に頼っていては駄目で、その先に進まなければならないということである。
絵画や書は、形から離れるわけだが、それは見えるモノから見えないモノを描いていくということになるだろう。形だけでは表現できない、動き、エネルギー、心などであろう。

合気道で形はないとは、形をしっかり身に着けたら、今度は目に見える形から離れて、目に見えないモノを探究しなければならないということであろう。
大先生の「合気道」という掛け軸が、本部道場の正面床の間に掛けられているが、この書には、目で見える形だけではない、何か目には見えないモノがあり、それがこの書を何十年見続けても飽きるどころか、みれば見るほど魅了させるのだと思う。

その目に見えないモノとは、動きであり、勢いであり、強力なエネルギーなどであろう。宇宙の営みと一体の動きであり、勢いであり、そして宇宙のエネルギーがつまっているのだろう。見る人が見ると、この大先生の書からは、響きと光があるという。書道家には書けない書だとも言われる。

このような書を描かれる大先生のつくられた合気道は、形ではないことは良くわかる。
大先生は、「合気道は形はない。形はなく、すべて魂の学びである。(「合気神髄」P17)、「武の極意は形はない。心自在に生ず。気は一切を支配する源・本であります」(合気神髄)p129」といわれている。
つまり、合気道は、目に見える形ではなく、目に見えない、魂の学びであり、心の学び、気の学びであるといわれているのである。