【第55回】 憎まれっ子であれ

合気道の修行とは、道場で技を磨くことだけではない。道場の外での一人稽古や道場での稽古時間以外の時間も、大事な修行の時間である。一人稽古はともかく、道場内での稽古時間の前後は緊張が緩みがちである。稽古の前は、俗世のことを引っ張り込んでぺちゃくちゃ話し合ったり、足を投げ出したり、それも正面の床の間に向かって足を向けたりしているし、また、稽古が終わった後、初心者が掃除をしなかったり、修行に反する行為が多々見られる。

開祖が居られた頃は、道場はピーンと緊張感に満ちていたので、無駄話をしたり、足を投げ出すような雰囲気ではなかった。また、稽古人もあまり多くなかったせいか、何かあれば先輩が後輩にすぐ注意したものだ。当時、足を投げ出したり、暑さのせいなどで胴衣をはだけらり、また、女性を投げ飛ばす稽古や力を抜いた稽古などしているのを開祖に見つかると、その本人ではなく、必ずそのとき道場に居合わせた一番古い人が怒られたものだ。それ故、当時、道場で師範や先輩は常に気を配っていたし、われわれ初心者は、先輩のいうことをよく聞くように心したものである。

今は合気道人口も増え、道場が狭く感じられるくらいに大勢の人が稽古をするようになった。その上、外国から来た稽古人も増えた。そのせいもあって、稽古時間は先生が責任をもって見ているので問題はないが、稽古の前と終わった後は注意する者がいないといってもよい。たまに誰かが注意したりすると、むくれたり、腹を立てたりする者もいる。それで、先輩も注意するのが嫌になって注意しなくなる。注意するものがいなくなると、事態は悪化するばかりである。

高段者で高齢になってきたら、悪いことは注意していくべきであろう。開祖は、「50,60歳はまだ鼻ったれ小僧」とよく言われていた。この意味するところは、50,60歳までは、礼儀もまだ分からないから教えなければならない、ということでもあるだろう。開祖が居られると思って、高齢・高段者は「鼻ったれ小僧」を導く責任があるだろうし、古い者がその場の責任を持つということも継承すべきであろう。時には憎まれるだろうが、それにめげずに注意していくべきである。人はいいことは十分の一も継承しないが、悪いことは十倍の速さで伝わっていく。高齢者の稽古は、技を磨くだけではなく、真の合気道を追及、継承することであろう。悪いことを注意して憎まれっ子と思われることに負けないことも、また稽古であろう。