【第55回】 争わない稽古

合気道は勝負ではないので、原則的に稽古は争わないことになっている。みんなそれは分かっているので争わないように稽古しようとしているが、時として争ってしまう場合がある。お互い素直に、または我慢して受けを取れば争いは起きない。また、一方が上手くて、相手が下手だったり力が弱ければ、逆らっても押さえ込まれてしまって争いにはならないだろう。それでも時として争いになることがある。それは理にかなった技でない場合や破壊的な稽古をした場合である。そうなると、多少、相手との力の差があっても、頑張って倒されまいとする。これは理屈以前の人間の生存に対する本能が働くのだろう。

本来、人間はその気になれば、そう簡単に倒せるものではないのだから、そういう気を起こさせてしまうと、相手は倒れないし、結局争いになってしまう。逆に、多少きつく投げたり押さえたりしても、理に適っていて、創造的な技ややり方であれば、相手は頑張ることなく、納得して投げられる。理に適い、創造的な技とは、宇宙万世一系につながる自然の技であり、合気道同人がそれに近づくべく求めているものである。

下手なものが上手の相手に技をかければ、技が効かないのが普通である。なんとか技を決めようと一生懸命やるのはよいが、理に適っていなければいくらやっても決めることはできない。周りで見ていれば、争っているように見えるかもしれない。争わないためには簡単に倒れてやってもいいのだが、あまり簡単に受けて倒れると相手のためにも自分のためにもならないだろうし、その兼ね合いが難しいものだ。そのときの相手の実力やレベルにもよるが、相手が3回やっても決められなければ、受けを取ってやるのがいいのではないか。

出来ないことは、出来ないのである。だいたい、一度やってできないことは3度、4度やってもできないのだから、がむしゃらにやっても意味がない。それよりも、明日、一年後、十年後にはできるように、先につながる稽古をした方がよい。例えば、二教などはその典型である。効かないからといっていくら力をいれても、相手が強くて鍛えていれば、何度やっても効くものではない。

それより、相手をどうこうするのではなく、例えば、自分の手のしぼりや角度を意識した、自分のためになる稽古をするほうがよい。多少は筋肉も出来るし、感覚も磨かれるはずなので、この次はより上手くいくであろうし、1年後、10年後にはその相手を二教できっちり決めることが出来るようになるかも知れない。相手を押さえ込もうとか決めようとするのではなく、自分のために鍛えるという意識を持って稽古をするならば、相手はそれを感じて、争うことはなくなるだろう。

争わないためといって、逃げてはいけない。何事にも先ずはぶつからなければ、物事ははじまらない。逃げればそのときは争わないですむだろうが、今度は自分の内からの声と争い、戦わなければならなくなるだろう。これはもっと深刻な争いである。出来ないことや失敗は、問題ではない。問題は、上手くできなかったことを研究したりフォローアップしないで、同じ失敗を繰り返すことである。

稽古相手やいろいろな課題にぶつかりながら、しかも争いにならないよう、一歩々々着実に稽古を積んでいきたいものである。