【第548回】  「やるべきこと」をやる

習い事は時間が掛かるし、これでいいという終わりもない。地道にその道を進むしかない。
合気道も同じである。一朝一夕で会得できないばかりか、一生懸けてもその道に達することができるかどうかもわからないのである。
地道に道を進むとは、やるべき事を一つずつやっていくことである。

しかし、この「やるべきこと」というのが、まず問題である。
合気道は武道であるから、基本的には、敵にやられないよう、敵を制することができるようにならなければならない。これは、かっての柔術や武術の稽古のような目的ではなく、結果として、そうならなければならないということである。

合気道も当初は他の武術や武道に引けをとるわけにはいかなかったこともあり、武術的な要素も多分にあった。それ故、かっての武術同様、敵には知られないためにも、その「やるべきこと」を残したり、公開したりしなかったのだろうと考える。
更に、今の合気道(養神館塩田剛三館長以後と定義する)の歴史は新しく、まだ、「やるべきこと」がまとめられていないと考えている。

今の前の合気道は、相手に負けない、相手に勝つための武術的、柔術的な武道であったので、稽古の目的も強くなることだったはずである。そこに「やるべきこと」は何かなどを、頭を悩ませて考えることもなかったはずである。

しかし、新しい合気道になると、それまでの相手との勝負に勝つための稽古から、
自分に勝つための稽古に変わってきた。また、体力や腕力に頼る魄の稽古から、心を主体とする魂の稽古に変わらなければならないのである。
これまでの稽古法、思考法と異質な稽古をしなければならず、そのための「やるべきこと」を見つけ、身に着けていかなければならないのである。

合気道は技を錬磨して精進するので、まずは、いい技が出る、効く技がつかえるようになるために、「やるべきこと」は何かということになろう。
私が考えるに、誰でもやらなければならないことは、@合気道の体をつくる A体のつかい方 B息づかい(呼吸)である。そしてこの三つがひとつになって機能するわけであるが、鍛えるにあたっては、このように@ABと分類して稽古した方がいい。

さて、この三つの稽古の@合気道の体をつくるは更に細分化される。例えば、筋力をつける(腕、脚、腰腹)。関節を鍛える=カスをとって筋力をつけ、柔軟にする(手首、肘、肩、肩甲骨、股関節)。手先や足の体の末端と腰腹を結ぶ。そのためにも、肩を貫かなければならない。
これらは、体をつくるためにやらなければならないと考える。

Aの体のつかい方であるが、例えば、右左と陰陽につかう(手、足、手と足)。十字につかう(手先、足、腰)などである。
体のつかい方としてやるべきことをやらなければならない。

Bの息づかい(呼吸)であるが、例えば、イクムスビ、阿吽の呼吸、天地の息に合す、摩擦連行の息づかい等々である。
これらが、息づかいでやらなければならない事である。
勿論、この@ABは独立して稽古をし、身に着けていくのがいいが、技でつかう際は、同時に一体化して使っていかなければならない。

上に書いた「やるべきこと」は、そのほんの一部のはずである。稽古を続けて行くに従って、まだまだどんどん増えてくるはずである。

このやるべきことをやらなければ、技は上手く掛からないだろう。技が上手く掛かるということは、相手を倒せるかどうかということではない。相手を倒したから、技が上手だとはかぎらないのである。上手というのは、自分だけでなく、技を掛けられた相手が納得し、満足しなければならない。つまり、受けの相手が自ら納得して倒れるのである。合気道は倒すのではなく、相手が倒れるのである。
技が上手ということは、理に合っていること、宇宙の法則に則っていることである。

上手な技をつかうためには、これらの「やるべきこと」を一つ一つ地道にやっていかなければならない。身に着けるのはそう容易ではない。「こと」によっては、数年かかるものもあろう。それに身に着くのは、ほんの少しずつで、紙一重の上達なのである。「やるべきこと」をやってきたなと思えるようになるのは、それをはじめて10年目ぐらいだろう。

稽古の目的を倒すことに置き、倒すことに快感を覚えるような稽古をしていくと、当初は上手くなったと思うだろうが、そのうち必ず壁にぶつかり、また、場合によっては、体を壊すことになる。「やるべきこと」をやらず、理合いに反する稽古をするからである。
焦らずに、「やるべきこと」を一つづつやっていくほかないだろう。