【第547回】 顕界と幽界、若者と高齢者

合気道も半世紀以上続け、それなりに年も取ってくると、年を取ってきた自分が若い頃とは大分違ってきていることに気が付く。違ってきたというのは、量的なものではなく、質的な違いである。
その違いは、日常生活にもあるし、合気道の稽古にもある。

それでは若い頃と高齢者になった今の違いは何かというと、それを合気道的に表現すれば、若かったころは、主に顕界に生き、年を取ると幽界に生きることだと云える。
ここでの顕界とは、目に見える世界ということであり、幽界とは目に見えない世界とする。

50歳、60歳の若い頃は、見えるモノに憧れ、その獲得に時間や労力を費やした。そして己の外見を飾り、体裁をつくろい、人に負けないよう、格好良く生きようとしてきたようだ。
また、合気道の稽古においても、力や体力に頼った稽古をしてきたし、人に負けないよう、少しでもランクアップしたいとやってきた。

70歳を超えてくると、見えるモノより見えないモノに興味が移り、見えないモノを大事にするようになってきた。
見えないモノとは心である。
合気道での見えないモノとは、心のほか、気であり、霊であり、魂であり、神などである。

この目に見えないモノで世の中や世間を見ると、それまで見えなかったことが見えるようになるし、これまで分からなかったことが分かるようになってくる。これまで見過ごしていたものに気が付き、美を感じ、共に生きているという感覚と愛を持つようになる。例えば、何気ない草花を心で見ると、それが萎れていようと、折れ曲がっていようと、共に一緒に生きていること、宇宙の為に生成化育の働きをしていることを共感するし、一緒に頑張ろうと思うし、頑張れよご苦労さんと愛も生まれる。きれいな草花だけでなく、道路の割れ目に出てきている小さな草にも愛を感じるのである。

目に見えないモノを見る習慣は、合気道の修業からきているわけだが、この幽界から若者の世界の顕界を見ると、己の歩んで来た道と重なり、そして今の若者、そして高齢者の問題が見えてくる。

まず、若者であるが、見えるモノを追い、見えるモノしか信用できないので、多くの問題を抱えることになるわけだが、本人たちはそれが何故なのかわからない。モノを追及すると、物質文明に入り、競争していかなければならないことになるということである。弱肉強食の厳しい社会になり、厳しい生存競争を強いられるわけである。

しかし、あるレベルの生活をしていくためには、経済は大事であるから、若い内はある程度は我慢しなければならないだろうが、目に見えるモノだけに頼ると失敗したり、上手くいかないことになるが、分からないのが気がかりだ。
例えば、若い女性は少しでも美しくなればそれだけ幸せになれると、化粧や服装に時間やお金や労力を掛けるが、美人の方が幸せになれるという保証はないことに気が付かない人が多いようである。私の方が美人なのに、彼氏はあの美人でもない女の方を取った、くやしい! 何故なぜ!とくる。

その理由は簡単である。彼氏は、見えるモノより、見えない心や情緒や文化を重視したはずである。年を取ってくるに従い、見えるモノから見えないモノの心を大事にするようになるのである。
それ故、高齢者で、心よりお金やモノにしがみついているとしたら、可笑しいし、哀れである。
合気道でも、高齢になって、力に頼った稽古をするのは、危険であるし、哀れであるから注意しなければならない。